★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.70

行動展ではRyuの目の読者の多くの方が美術館に足を運んで下さいました。
感謝申し上げます。
すっかり秋になりました。東京の欅にすでに枯れた枝が散見されます。紅葉が気にかかるところです。
また、選挙がありそうで、無さそうで…気を持たせます。

では《Ryu の 目・Ⅱ−no.70》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は三吉賢介さんです。前回の「月出づ」の続きです。

−月出づ・2−

演劇部の部室は2階、美術部の部室は3階にありました。6月5日、その美術部の部室を訪れました。部室にいたのは2年生の部員で、頼めばやってくれるかもしれないという感触を得ました。そして、翌6日、「古磯に雲の作成を頼む」と記録しています。一方で、月についての工夫も進行していました。生物の先生のところに行ってスライド映写機を借りています。月と雲とは一体のものですから、雲を描いてもらうためにも月がどのようなものなのか示さねばなりません。しかし、実際にやってみると月を作るのは意外に難しく、いろいろもがいてもうまくいきません。が、学校からの帰り道で、真ん中に他の布を垂らせばいいだろうということを思いつきます。そういう準備をしながら二人の連絡はうまくいっていたようです。美術部と回路が通じたおかげで、容器を借りて装置の着色をし、いい味になったと喜んだり、2年生の清純な美人の部員が気もよく利くので、彼女のような人が演劇部に入ってくれると楽になるのだが、と羨んだりしました。

いよいよ、13日。「古磯と二人で月と雲を作ったが、古磯の見事なタッチによる雲と絶大なる協力により大まかな感じはとれるようになった。」おそらく古磯くんと僕が記憶を共有していたのは、このときのことだと思われます。3階の校舎の幅広い廊下に、どこで手に入れたのかは分かりませんが、大きな黒い幕を広げて、古磯くんがスイスイと筆を走らせていったように記憶しています。「しかし、雲のわくが3mしかないので、幕(引幕)との関係上、低すぎるし、月の色、また最大の悩みは天井のあかり窓からの光がすごく明るくて、よっぽどのことがない限り、暗くなりそうにないということである。」この年の文化祭は、新設の体育館で行われるようになったため、思わぬ障害に悩まされとおしでした。「やはり古磯は芸術家らしく、また俺も芸術家といえるかもしれない。というのは、自分の仕事に対して責任をもつことを忘れないからである。」このころの僕は、演劇を総合芸術と捉えていました。だから、染色部・美術部・剣道部・音楽鑑賞部・物理部といったクラブの協力を得て作る劇を、いかにも総合芸術らしいと評価していたし、観客には芸術的な感動を与えたいと腐心していました。そして、そのための最善を尽くすことを、また芸術的だと看做していたようです。

翌6月14日は日曜日でした。雑用を済ませて、11時15分くらいに学校に行くと、「もう古磯が来て雲をぬっていたが、申し訳なかった」。約束の時間に遅れてしまったようです。体育館ではダンス部が練習をしていましたが、それが終わった後で、彼女たちにも手伝ってもらい、「古磯と暗幕をしめ、雲と月の具合を調べてみたが、上からの光さえなければ相当のものになりそうだ。しかし、10分くらいしか暗くできなかったので、またも結論はでなかった」。月に合わせて古磯くんは雲の残りを描くつもりだったのでしょう。ともあれ、二人と、いい加減なところで妥協しなかったようです。
15日の昼休み、演劇部の顧問の先生に体育館の天窓にカバーをしてもらえないかと要請し、更にしかるべき責任者であるY先生のところに行って、願いを伝えたのですが、理屈にならない理屈によって撃退させられました。しかし、顧問の先生はカバーできなかったことを気にかけてくれていて、18日には「あかり窓に幕がつかないから、みんな機嫌が悪いんじゃあないか。どうも悪い雰囲気で、わしゃあ、こんなことを感じたのは初めてでよー」と語られました。我々の活動にはあまり干渉されなかった先生がだいぶ取越苦労をされていたわけですが、それで案外いい先生じゃあないかと見直すことができました。19日にもなお「残るは釜をつくり、古磯に雲をかかせることの二つ」と記しているので、20日になって雲は完成したようです。

文化祭前日の20日は予行練習で、2.3年のクラス委員が道具係となって舞台装置の設置をしてくれました。かなりの教室から教壇を集めて二重としてその上に夜叉王の作業場付きの家を乗せた第一場を設置するのに1時間ほどかかりました。畳4枚を通路に使った太鼓橋のある第二場において雲の幕を天井の鉄パイプに取り付けたのですが、その幕の取り付け位置などを検討しつつなので、また1時間ほど準備にかかりました。しかし、一場で使った教壇を重ねて高くした上にスライドを置いて月を出すと、取り掛かりのころには四角であった月がちゃ
んと丸くなりました。この月、頼家の「おお、月が出た」というせりふに合わせて登場しますから動かなくてはなりません。確かスライドの方を上下に向けて動かしたのだと記憶しています。ともあれ、この一言のせりふと場景のために、古磯くんと僕とは共同作業を行い、「二場の月はよかった」と記しているので、満足すべき結果を得たようです。
21日、いよいよ本番です。幕が上がると同時に客席にどよめきが走ったのは、整然と美しい第一場の舞台装置が観客の驚きを招いたからでしょう。第二場への転換はクラス委員たちの発奮で大幅に短縮されたとはいえ、30分くらいかかったと記憶しています。そして、幕が上がると同時に、また新しい場面へのどよめきが走りました。「月もやや不調ではあったが、初めてみるものには珍しく思えただろう」と記しているので、万全とはいかなかったようです。また、「月が昇ったり下ったりするのでハラハラした」という父兄の声を母から聞いたような記憶もあります。
第三場への転換もやはり30分くらいかかったと思われます。のんびりした時代ですから、野次が飛ぶわけでもなく、観客は適当に体育館を出たりしてほどほどの時間になると戻ってきて劇の続きを楽しんだようです。無論、先生方の中には厳しい見方をする人がおり、翌年の文化祭からは時間制限が設けられたりしました。

後に振り返ってみれば、僕も木を見て森を見ていなかったのでしょう。それぞれの場面を作り上げることに必死で転換のことにまでは思いを馳せていなかったのですから。舞台転換をスムーズに行える舞台装置作りという課題は大学1年のときに早くも解決することができました。それは同時に、劇というものを根本から見直す過程でもありました。


◆今月の隆眼−古磯隆生

  • 大地の目覚め-について

今回、行動展出品しました「大地の目覚め」について書きたいと思います。
「…。ふと足下を見ると、雨上がりの水溜まりが青々とした樹木を写し出している。枝からの水滴が同心円の模様をあちこちに描き出している。何かリズミカルで、音を観ているようだ。一方で、関東ローム層の黒っぽい土に浮かび、濃い緑を湛えたこの水溜まりは、あたかも黒い大地が忽然と瞼を明け、緑色の目で人間世界を覗いているようなシュールな光景にも思える。…」これは2年前の9月に発信した『私の夏休み』の一節です。

そして2ヶ月後の『甦る』では
「…。この雨上がりの水溜まりに対するイメージはおよそ50年程前の小学4、5年生の頃に遡ります。当時私は山口県宇部市にいましたが、港や工場地帯の風景が好きで、よく一人でスケッチに出かけていました。港に行った時の事ですが、付近に石炭が積まれていた一角があり、その辺りは一面にその粉が散って何となくどす黒い地面をしていました。そこにとても美しい水溜まりを見つけました。どす黒い地を背景に、雨上がりの午後の眩しい黄色い陽を受けた水溜まりが何ともきれいに浮かんでいました。いつも水彩絵の具を持ち歩いていましたのですぐさまそれをスケッチブックに描いたのを覚えています。このコントラストの強烈な光景はしっかりと私の中に焼き付けられていました。時を経て、私の中にずーっと眠っていたそれは、井の頭公園の雨上がりの水溜まりを見た途端に呼び起こされ、…シュールな光景として甦りました。これはとても刺激的な事件でした。」と繋がっていきました。

私にとってこの事件はその後絵を描く重要なテーマへと発展していきました。以来、四季折々の雨上がりを求めては井の頭公園を浮遊することになり、シュールレアリスティックなイメージを内に秘めて2年掛かりでで105cm*105cmサイズのパステル画6枚を描きました。「雨上がりに束の間現出した水溜まりは、思いも寄らない光景を映し出しました。それはあたかも眠りから覚めた大地が瞼を開けたときに最初に目にした青々とした地球の姿…そんなシュールな光景でした。そして時間の経過はやがてその水溜まりを消失させ、大地は再び眠りにつきました。束の間の世界は消え去りそこに日常世界が戻ってきます。」
そして、「目に見えてるものの向こうにあるもの…」これが大地の目覚めシリーズのテーマです。


◆今月の山中事情37回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−石の上の三年−

実は、この八月一日をもって、当店は満三年となっていた。
誰ひとり知る由もなく、一歩たりとも踏み入れたことのないこの山中になぜ店を構えたのかと言えば、ずい分前から、どこか峠で店を出したいとの思いからだった。しかし、それからの日々は、本音を吐露すれば、絶望を通り越し憎悪さえ感じていた。東京と埼玉。所在は隣り合わせたが、何かが違っている。それが山の中であるから尚更だ。池袋からわずか1時間ちょっとの距離だが、途方もなく遠く感じるのだ。錯覚をしていた。東京の隣は、田舎だった。自然がいっぱいあることなど別にどうでも良かった。空気が旨いなんていうのも嘘だと。東京のそれだって、自然であることに変わりはないからだ。ところが三年終わった。私のDNAは決して都会人ではないことに気づいた。山形県出身の田舎者ゆえ、いつしかこの環境も悪くはないなと、多少思えて来たのだ。

私の暮らしは晴耕雨読のような毎日だ。陽が昇れば起き出し陽が沈めば、仕事のような、そうでないようなことを終える。たまに東京に出て、確かに旨くない空気を吸う。たまに吸うから麻薬のように旨く感じる。いっぱしに「都会の雑踏は息苦しい」などと田舎者のたわごとを言ってみるのも楽しいものだ。時代に乗り遅れるのが嫌だと言う積もりはないが、ニュースで見たり新聞で読んだものを、この目と耳で確かめるためうろついてみた。今や、我が飯能市から渋谷まで、副都心線なる地下鉄が直結しているからである。まるで、私の上京を促す為にわざわざ路線を造ってくれたのかとも思っている。誰ひとり知らなかったこの山の中の店に三年が過ぎたら、いつの間にやら万を数える人が来店してくれている。”毎度!”と言ってしまうお客様もずい分いらっしゃいます。商売の面白さは、まさにここにあるのです。

そこに店を構えれば、必ずや誰かが立ち寄ってくださる。その人が又誰かを連れて来てくれて、店の型を造り上げて下さいます。あとはひたすら「がまん」をすることだ。私はそれを四十年かけてやっと会得しました。敷地内にボロ小屋が建っていた。そこを壊して念願のギャラリーを建てた。心ある方がそれを作ってくれました。私もちょろちょろ邪魔をしながら手伝った。測量、基礎造り、ベンキ塗り、壁塗り、コンクリート打ち、溶接、植裁など全く経験したことのないことをやらせて貰った、電動工具もいろいろ覚えた。完成はもう少し先だが二人の意見を出し合って、とても面白い建物になった。廃材も所どころに上手にリサイクルしてあります。
アーティストがそこかしこに居るらしく、今後発表の場に使用して欲しいと願っている。コンサート、句会、読書会、落語会、映画界と多目的に活用して貰うことを目ざしている。タイムリーにも先日、市内のギャラリーに三十名程のアーティストが集まり、料理を頼まれた。丁度より宣伝だと思い我がギャラリーの存在を話して来た。
東京時代とは又、視点の違う営業形態展開することになる。