★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.69

暑かった夏も、いつしか秋の気配を感じさせる程になりました。
いよいよ衆議院解散、選挙でしょうか?
それにしても国のトップが仕事を投げ出す風潮は如何なものでしょうか。
政治家、大人の劣化を子供達に見せつけ、反面教師となりうるのでしょうか?

では《Ryu の 目・Ⅱ−no.69》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は三吉賢介さんです。
 
 40数年ぶりに会った中学時代の友達が思い出話を書いてくれました。
 少々個人的側面はありますが、団塊世代の当時の様子が窺えますのでご一読下さい。次回も続きます。

−月出づ−

僕が古磯くんと初めて出会ったのは中学一年のときで、中村という音楽の先生が担任の56人のクラスでした。第二次世界大戦が終わったおかげでこの世に生まれ出ることができたとも言える僕たちの学年は、3つか4つの小学区の集まりで18クラスあったから、およそ1000人いたことになります。この時期に取り立てて一緒に何かをしたという記憶はありませんが、けっこう仲の良い友達として過ごしたように思います。背が高かったことと、絵がうまかったというのが古磯くんについての忘れ難い印象でした。
やがて、同じ高校に進学し、彼は美術部に僕は演劇部に入りました。そして、高校三年生のとき、演劇部が「修禅寺物語」という劇を上演したとき、古磯くんに頼んで黒幕に大きな雲を描いてもらいました。
去年(2007年)の9月、高校の同期会があり、2次会の席で隣同士に座って43年振りにゆっくり話す機会がありました。彼がその日に先輩に案内してもらったという萩の藍場川の畔にある湯川邸は僕も好きなところで何度か訪れたことのある場所でした。川の水を家の中に引き込んで洗い場にしたり風呂に引き込んだりしている知恵と風情に感心し合ったものでした。彼に雲を描いてもらったことに話が及ぶと、「無論、覚えている。筆をどう運んだかということも記憶にある」と、彼は言いました。記憶というのは、片方だけが覚えているだけだとおもしろくないし、双方の記憶が食い違うときには下手に我意を通すと喧嘩になってせっかくの友情を損ねることにもなりかねません。何かを一緒にしたことの記憶は残り易いのか、幸い僕たちの記憶は一致し、それに加えて筆の運びまで加わったので、さすが絵心のある人は一味違うと感心したものでした。
と、ここまでは記憶の問題でした。ところが、先日古い日記を読み返す機会がありました。その当時の記録を辿ってみると、僕たち二人の共同作業はもっと奥の深いものだったことが分かり、ならばとこの稿を書く気になったのでした。

昭和39年(1964年)。6月21日に行われる文化祭に向けて、演劇部は春から「修禅寺物語」の稽古と準備を始めていました。正確を期すために脚本を読み直そうと探してみたところ、それ以前のものは出て来るのに、なぜか「修禅寺物語」だけは見つからない。それで、図書館で借りて読み直してみました。そうすると、44年前の話の筋が次から次へと蘇ってきました。
作者は「半七捕物帳」で知られる岡本綺堂です。明治44年に明治座市川左団次一座によって新時代劇として上演されました。
元久元年(1204年)7月18日、源頼朝の息子で2代征夷大将軍になりながら、北條氏との争いに敗れて今は伊豆の修禅寺に幽閉されている頼家が面作師の夜叉王のもとにやってきます。「生れついての性急」である頼家が、注文の面をいつまでも仕上げない夜叉王にしびれを切らして、じきじきに催促にやってきたのでした。自分の意にかなうものができないし、いつできるとも応えられないと言い張る夜叉王に立腹した頼家は、従者のささげる太刀を引き取り、切らんかなの構えをみせたので、夜叉王の二人の娘が面ならできていると、前夜の作を持ち出します。面は頼家の気に入り、伊豆の田舎にくすぶっているのに嫌気のさしていた姉娘の桂も頼家の気に入り、所望されて頼家の供をして去ります。
場面は変わって、その日の夜、帰り道の橋の袂になります。従者たちが気を利かして先行したあと、月が出て、頼家と桂の愛の語らいがありますが、北條からの使者が現われて邪魔されます。その場は威厳で暗殺者を抑え込んだ頼家でしたが、修禅寺に去った彼を大勢が襲う計画が明らかになるとともに、探しに戻った従者と北條の兵との間で早くもチャンバラが始まります。
場面は最初の夜叉王の家になり、頼家によく似た面を被って寄せての注意を引き頼家を逃そうとした桂が、重傷を負って戻ってきます。幾たび打ち直しても、死相が面に見えたことの真意を悟った夜叉王ですが、桂も一時とは言え将軍家のそばに召し出され、「死んでもわたしは本望ぢゃ」と述べます。最後の場面はすさまじく、若き女の断末魔の面を後の手本に残しておきたいから、「娘、顔をみせい」という夜叉王に桂は「あい」と応え、筆を執って模写するところで幕となります。

今後の話の展開のために、あらすじをざっと述べましたが、短いながらも緊張感が張り詰めた、よくできた作品でした。
この劇作りにおいて、僕は舞台装置から小道具、効果の音楽など、裏方の仕事をほぼ全面的に引き受けていました。特に舞台装置は早く作って役者に馴染んでほしいといった考え方だったので、5月の10日ごろにはあらましできあがっていました。そういう中、18日の放課後、文芸部のMくんと古磯くんが連れ立って演劇部の部室にやってきました。「古磯は肯定的、Mは否定的」というのが、この時期に最初に現われる古磯くんについての記述です。そして、僕はそれぞれに同意しています。これは何についてのことなのだろう、と悩みました。日記ですから、分かり切ったことは省略してあるのでしょう。
そのあとで、僕が演出と夜叉王を兼任していたGくんに個性を出すようアドバイスしていますから、どうも演出についての問題であったらしい。役者をやりながらの演出は難しいだろうから、自分にやらせてくれないかとMくんが申し入れ、古磯くんの方は、Gくんで大丈夫だろうという意見だったのだと思われます。
その当時の文化祭の二大花形は、エレキギターなどでウエスタンやハワイアンを演奏し客席からテープが飛んだ(ただし、この年から場所が新設の体育館になり、テープを投げることが禁止されたように記憶しています)、器楽部と演劇部でした。そして、「修禅寺物語」の前評判も高かったので、他の部からの関心も集めていたようです。Mくんの一件は6月3日に解決していますから、僕が折々に演出するということで、Mくんを納得させたのだと思われます。

さて、第二場のト書きに<月出づ>というのがあります。これは、雲の合間に月が出たのだと解しました。いよいよ雲の作成に取り掛からなければなりません。 つづく


◆今月の隆眼−古磯隆生

高台寺』−

京都東山地区にある豊臣秀吉北政所ねねの開創寺です。ここは様々に見どころのある寺院でした。
最初に目を引いたのは「臥龍廊(がりょうろう)」です。「開山堂」と秀吉・北政所を祀った「霊屋(たまや)」を結ぶ階段状の吹きさらしの廊下です。霊屋は開山堂より高い位置にあり、臥龍廊はその間に配された「臥龍池」を渡って迫り上がります。その屋根の迫り上がる姿が龍の背に似ていると言うことでこの名が付けられたそうで、ダイナミックな光景を展開しています。残念ながら観光客にはこの廊下を渡ることはできません。
この臥龍廊を横目に霊屋に向かいます。霊屋は色彩が豊かでこぢんまりとした建物でした。軒裏の化粧垂木の垂木鼻にまで金の装飾金具を施してあり、なかなか華やかな雰囲気が醸し出されています。この装飾金具の金色が架構体や軒裏の朱色と絶妙に取り合っており、且つ、繰り返すように施された装飾金具が一定のリズムを刻んで、それがまたアクセントとなって引き締まった緊張感すら漂わせています。
その霊屋を出て更に登っていくと渡り廊下で繋がった「傘亭」と「時雨亭」が現れます。これは利休の意匠と言われている(確証はない?)茶席です。傘亭は茅葺きの方形造りで、天井面は急勾配に竹を放射状に組んであり、下から見ると唐傘を開けたように見えることからこの名がついたとか。時雨亭も茅葺きで、入母屋造りの二階建です。天井面はやはり竹で組んであります。この傘亭は嘗て写真で見たことはありましたが、実物を見るのは初めてです。残念ながら中には入れてもらえず、窓越しの対面でしたが、なかなか緊張感のありそうな空間で、機会があったら是非一度入ってみたいものです。このツインの建築はなかなか味わい深い建物でした。
傘亭を去って程なく散策すると竹林に導かれます。この竹林がまたいい!!
森閑とした中に、凛とした空気が漂っており、しばし浮遊してしまいます。
お勧めの竹林です(この他にお勧めの竹林は地蔵院)。写真を貼付しますのでしばし浮遊して下さい。また行ってみたい寺院になりました。

写真1:竹林
写真2:臥龍
写真2:霊屋から傘亭に向かう途中、一生懸命、石に同化しようとしてる可愛子ちゃんを見つけました。
爬虫類苦手な方でもこれは許せる?



◆今月の山中事情36回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−変化−

2008年5月29日産経新聞論説委員皿木喜久氏のコラム「風の間に間に」より。
『 離別(さら)れたる身を踏込(ふんごん)で田植哉 − 蕪村
今風に言えばバツイチ。「三下半」を突き付けられた身だが、ここは頑張って田植えに精を出そう。そんな句意のようだ。
−中略−
田植えが日本社会にとってどんな大きな意味を持っていたかということだ。籾(もみ)まきから田植え、草取り、稲刈りと続く稲作の作業でも田植えは最も重要で、かつ、辛い仕事だった。やたら人手がかかった。そこで村や集落の人が総出で各戸の田んぼを順番に植えて行くという共同作業が行われた。男衆が畦道から苗を田んぼに投げ込む。それを女たちが列を組み、畦道から張られた縄に沿って植えて行く。見事な「チームプレイ」だった。子供達までその間、子守やお茶くみなどにかり出されたのだ。
−中略−
そして何百年続いてきたであろうこの作業は、日本人の気質だとか社会の成り立ちだとかに大きな影響を及ぼしてきたような気がしてならない。例えば、今でも農村や都会の下町には日々の味噌や醤油まで貸したり借りたりする互助精神が残っている。そこには共同で稲を育ててきたDNAが引き継がれているように思えるのだ。
−中略−
その田植えの光景が消えてしまった。農村から急速に人が減り、農業の機械化が進んだからだろうが、文字通り「あっという間」の出来事だった。「原風景」を失ったことがどれくらい今後の日本人の精神生活を変えていくのか想像もつかない。−以下略− 』

しかし乍ら、この地球上に於けるすべての人間社会の営みは常に変化を遂げながら続いている。我が国とてこの数十年で格段の生活変化や社会構造の変化を見た。そして尚進行中だ。それは政治によるところの変化だったり、国際的潮流であったりして、人々も又それを受け入れざるを得ない状況になったからである。
都市集中による地方の変化も顕著だ。地方の担い手が少なくなったことにより、古来より継承されてきた行事もだんだん消えかけようとしている。マスコミは時に伝統行事を使命のように伝えているが、目に見える「型」よりもそれを行わなければならない精神的なものが失われているところを伝えるべきである。皿木氏の記述は恐らくそのことを指している故、前段に紹介させていただいた。

機械化による変革で「田植え」の意味もいずれこの国では誰も説明出来なくなるだろう。農山魚村に於けるひとつづつの行事は全て意味があるのだが、現在は「型」だけしか継がれていないように思われる。現に私の地域にある古い神社とてそうだ。そこに行くにはかなり急な坂道を登って行かねばならない。しかも悪路である。一年に一度のその参道を清掃した後、午後からお祭りだという。
しかし、地域の班の者以外ほとんど来ない。なぜなら老いた者がほとんどのこの地域ではいつの間にかそんな祭りになったようだ。かつては大変な賑わいであったこの神社のお祭りも、今ではこのように「型」=「体裁」だけで村の行事は終わる。続けてきたものが続けて行けない行事はこれからも日本中の至る所で起こるだろう。これを変化ととらえるか廃退ととらえるかは解らない。マスコミが様々な行事を伝えることには異を唱えるつもりはないが、地方のとある所では、このような行事は最早その世話人以外守りは居ない。
農業立国から工業立国に急速にシフトした我が国では、その間、精神的な拠り所をどこかに置き忘れてきた感がある。ニュースで流れる地方の行事はあたかも今も順調に継承されていると考えがちだが、「体裁」の継承だけでは何の意味も持たないだろう。皿木氏の述べる通り、その由来を理解することが肝要だ。
この国は良きにつけ悪しきにつけ余りに急速に変化した。