★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.66

早、6月です。例年より早く梅雨入りしたようです。
鬱陶しい日々ではありますが、雨後の水溜まりは、突然現れる別世界を楽しませてくれます。

・「今月の風」に昨年話題提供して頂いた岩田宏子さんが伝統工芸人形展で日本工芸会賞を受賞されました。
 受賞作品の写真を貼付しましたご覧下さい。題して「調べ」。

・「今月の風」に何度か話題提供して頂いてます徳山隆さんが本を出版されていますのでご紹介します。
 「いつも仕事で忙しいあなたの心と体の負担をリセットできる本」
  明日香出版社 CD三虚霊(禅尺八で最も大切な三曲)つき
  ¥1,575(税込み)

今月は「様々情報」に「パリ・コンサートと美術館めぐり」を載せています。
今月は盛り沢山です!!!

では《Ryuの目・Ⅱ−no.66》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は 佐藤晃一 さんです。

−サテ、これからどう生きる?−

後期高齢者なんて !
私、昨年の三月に退職し、以来一年とニカ月が過ぎました。一つの私立学校で教師生活を四六年 (三年間の常勤講師期間を含む)やり、辞めた時の年齢が六九歳、今は七十歳です。後期高齢者の烙印を押されるまでにはまだ五年ほどあるとはいえ、後期が出現した以上、私の場合は前期か中期、いずれにせよ高齢者に変わりはありません。
もっとも、私が後期高齢者になる頃は、この名前の評判のあまりの悪さに自らを悔い恥じた賢い政治家先生やお役人が更に知恵を絞って、例えば 「晩期・末期・終期」などを後期の後ろに加えることにで 「もう後がない」という悲壮感からの解放を狙うでしょうし、それでも「酷い!」というのなら「高齢者層」の後に 「老齢者群」を設けることもできますから、それぞれ五年ずつとしても、百歳などは洟垂れ小僧、百十や百二十は当たり前、晩期老齢者でも百五十歳、それでもまだ後ろに末期や終期の老齢者枠が用意されているのですから大安心。私たちは、僻まずいじけず、好きなだけ堂々と生き切ればいいのです。

さて問題はどう生きるかですが、こればかりは個々人の主義や思想や好みの問題ですから、すべて自己管理と自己責任の範鴫にある問題です。自己判断で他人さまの生き方を真似たりするのは勝手ですが、政治家や役人の好意を強いる訳にはいきません。そこのところをよく弁えておかないと(高齢者としてはまだ青二才の私が言うのも変ですが)自分が惨めになったり苛立ったりの日々が続くことになり、あげくの果てに周囲から「あの爺さんは偏屈」のレッテルを貼られるのがオチでしょう。
で、私の場合です。まだ一年とニカ月ですから、将来に向けてのレールがきちんと敷かれていてその上を各駅停車や急行列車が時刻表通りに走っている訳てはありませんが、今現在は 「おおむねこの調子が少しでも長く続くといいな」といった心境ではあります。今の時点でそう言える理由は以下の三つです。

■人と関わり続けること
まずは、私には今も月に最低二度は、十年、二十年来の知己と、時には談論風発、時には口角泡を飛ばし、時には教えを乞える場 (会合)が持てていることが挙げられます。その場がある限り「高齢。老齢、恐るるに足らず」の実感もあり、これらの場がさらに長く続くことを強く願っています。次に、私は今、隔週に一度の割で『万葉集の世界』という講座を担当しています。受講生は保護者 (元保護者)と卒業生で、約三十名が来てくれています。受講生の中には私よりお歳を召した方々が大勢おいでで、その方々の多くが日本の古典や古代史ついての造詣は私より数段深くおいでです。曰く「私たち、いちばん勉強したい時に戦争があって、毎日軍需工場に通学していました」 「今はいくらでも学べる時代ですから」 「私、犬養孝先生の『万葉の旅』には何度も参加させて頂きました」 「折口信夫先生の講義や澤瀉久孝先生の講演も伺いました」等々。…まずは自分が勉強しなければならない環境、次に自分が主体的に場を取り持たなければならない時間帯、そして謙虚に教えを乞える方々、この三つの要素に「適度の緊張と心の張り」が保持できる限り、気持ちをしゃんと保ち続けることができると思っています。

■時に離れてみる
そして三つ目。これがこの小文の本題です。私はこの四月から二つの講座を受講しています。一つは、?早稲田大学が企画する公開講座シューベルト『冬の旅』を読み解く」(講師・梅津時比古氏/全十回・毎週)、もう一つは、?調布市図書館が企画する市民講座 「人生を探る会 (かっこよく老いを生きる/スタイリッシュ・エイジング)」 (講師・外山滋比古氏/全十回・月一回)です。?を受講するきっかけは友人の勧めでした。私は常々その友人特有の“好みの世界”に興味を持っていたので、彼女の勧めというただそれだけの理由で受講を決めました。クラシック音楽については無知同然の私ですが、この講座が (案の定または思いの外)面白いのです。講師の梅津先生には『冬の旅 24の象徴の森へ』(東京書籍)などのご著書もあり、講義の専門性は素人目にも「ナミではない」と分かり、そのサワリの部分については全く理解できない私ですが、でもそのお話がなかなか面白いのです。
例えば、

*「冬の旅」を全曲聴き終えるとすっかり落ち込んでしまって拍手する気になれないんですよね。孤独、ひと りぼっち、淋しいんですよね。この寂しさは、漂泊の詩人芭蕉でもない、山頭火でもない、そう尾崎放哉。ウン尾崎放哉ですね。放哉 は凄いですよね。「咳をしてもひとり」 「墓の裏にまわる」…分かりますよね。でも、放哉は分かられたいと思っているのかなあ。放哉と芭蕉、この比較は単純過ぎるかもしれないけど、芭蕉にしても山頭火にしても、上昇指向、体制指向がありますよね。放哉にはそれがない、絶対にない。好きですねえ。等々。

*淋しい、淋しい、淋しい、淋しい、と訴え続ける強さ、それが 「冬の旅」ですよ。まさに放哉ですよ。凄いですねえ。好きですねえ。等々。

こういう話が毎週の講義に一つか二つ必ず登場します。その都度、私の頭は俄然活発になり、まずは 「放哉が好き! だなんてよく言えるな。でも言ってしまった時の気分は最高だろうな。俺もやってみたいけど照れるよな」などと思ってみたり、続けて芭蕉から西行へと勝手な連想が始まり、先生の話はすでに 「冬の旅」に戻っているのに、私の頭は西行から能因そして赤人にまで逆上り、次の万葉の講座の予習が気になって来るといった始末です。その頃、先生は 「優れた作品は必ず多義性を持っていますよね。ゲーテの詩のように」などと話している。それを聞くや、また私の頭は 「じゃあ、土井晩翠はどうなの。彼の叙事詩が多義性を所有したら困るんじゃない」などと心の中で呟いています。そういう機会が必ず訪れるこの講座を、私は気に入っています。 「全10回の日程で第8曲までを終えるぺースで」とシラバスには書いてありますが、すでに5回の講義を終えた段階でまだ2曲しか終わっていないのですから、公約違反は必定です。でも、そんな話が気楽に聴ける時間は今の私にとって享楽の極みというか、頭を存分に遊ばせるには最適の場になっているのです。

■時に流されてみる
もう一つ、?の講座の講師外山滋比古先生は私が大学二年(1958年・東京教育大学)の時の英語の先生で、私たち国文科生の教室ではシェクスピアの劇詩がテキストでした。英文科ならいざ知らず、国文科の学生に 「you your you」の古語 「thou thy thee」で書かれた劇詩を原文のまま読ませる神経が分からないなどと言いながらの受講でしたが、先生は一見生真面目で神経質のようでありながら、実に滋味のある話やユーモアセンス抜群の感性を覗かせる方でした。調布市の講座案内で先生のお名前を偶然発見し、私はちょうど五十年ぶりに先生にお目に掛かることができたので、「これもご縁」と心に決めて前述の講座を受講することにしました。まだ2回しか講義はないのですが、これがまた面白い。お若かった頃の生真面目で神経質という印象はすっかり昇華して、滋味とユーモアのセンスはますます磨きがかかったというか、何しろ私が自主的に頭を働かす暇がないまま2時間が過ぎてしまう感じの講義でした。
例えば

*健康維持には歩くのがいいと誰かが言ったら、頭の回転の速い人が早速「万歩計」を作って売り出した。それがめっぽう売れて、一万歩が 「健康のために歩く歩数」の基準になった。それで皆さん朝早くからせっせと生真面目な顔をして歩いてる。一万歩には何の根拠がないんですよ。おかしいじゃないですか。だいたい起き抜けにいきなり歩き出すのは健康に悪いんですよ。等々。

*学校では頭を 「記憶の機械」としてしか使わせていない。コンピュータは記憶したことを忘れないようにできているけど、人間は憶えたごとを忘れるようにできているんです。忘れて、忘れて、忘れて、それでも忘れ切れなかったものが 「年寄りの智慧、あるいはその人の人格、個性そのもの」なんですよ。コンピュータにできないことは「頭を働かせて忘れること」。記憶というのは「消化しない」ということ。いわば頭の消化不良、頭の運動不足です。コンピュータが出るまでは忘れないことがいいことでしたが、今はその時代ではありません。早く忘れて、その忘れた部分を再利用して新しいものを生み出すカを蓄えることが必要なんです。等々。

先生の講義の間、私は何も考える暇がありません。ほとんど笑っているだけで、ただ先生のお話の流れに身をゆだれているだけです。その安心しきった充実感この時間帯はまさに至福のひとときです。

■これも何かのご縁ですから
今、私の退職後の生活が大過なく機能しているとすれば、それは上述の講座(万葉集シューベルト・老いを生きる)に負うところ大なるものがあるはずです。三つ並べるといかにも支離滅裂、脈絡欠如の組み合わせではありますが、でも正直なところ、これからはもう理路整然、時間厳守の生活と何が何でも仲良くする必要はないのですから、手前勝手は許されないし、今さら自由奔放の柄ではないし、かと言ってお宅指向や漂泊指向は億劫だし、まあ、私はどちらかと言えば“人さまとのご縁”を大事ににし楽しむ方ですので、昔から営々と敷いて来たレールを少しばかり延ばしていく日々でありさえすれば、それでいい (それがいい)と思っています。五十歳になって 「定年まであと十年」を意識し始めた頃、すでにこんな事無かれ的な爺臭いことを考えていたのかどうか、それは忘れてしまいました。外山先生の 「忘れるという行為こそが次の活力の素」は実にいい言葉です。

・話題を提供して下さった佐藤晃一さんは昨年の三月まで桐朋女子中学校
 高等学校の校長をなさっていました。


◆今月の隆眼−古磯隆生

−何が大切なのか?…円通寺

ここ数年機会を見つけては京都を見て回わるようにしています。数百年或いは千年を越えて存在する寺社には、その時間を貫いてきた何かがあるはずで、それを感じ取りたいためです。そこは自然の偶然で出来たものではなく、明らかに人が企図したものの結果として今日あるわけです。そういう寺社庭園についていくつかの話をしてみたいとと思います。

そんな思いの一つである京都洛北の円通寺後水尾天皇離宮跡で現在は臨済宗妙心寺派の寺院)をおよそ40年振りに訪れました。岩倉村松行きのバスを円通寺道バス停で下車、曲がりくねった道を徒歩で10分程でしょうか、住宅地を抜け、区画整理事業での開発工事を周りに見ながら山の方に向かっていましたが、目的の円通寺はこの開発工事に囲まれた中にありました。40年前とは随分な様変わりです。

比叡山を借景とした枯山水庭園として今も見る人を惹きつけます。幾分霞んではいましたが比叡山は遠くに青く浮かんでいました。この借景庭園の面白さは、単に眺望のいい比叡山を借景としていますというだけではありません。室内(座敷)から比叡山に至るまでの空間の奥行きの妙にあります。写真をご覧下さい。座敷からの眺めは縁側の床と垂れ壁の水平線によって上下が切り取られた構図になりますが、この水平線は庭の生け垣の水平線に協調し、空間の水平な拡がりを強調します。その‘水平性’は左右方向ばかりか奥行き方向への拡がりも意識させるものですが、この建物の柱や、生け垣に沿って聳える杉木立の‘垂直性’がよりこの水平な拡がりを演出することになります。特に木立の高木の並びは室内・縁側と庭園との一体性をより強く感じさせる作用をしており、この一体性によってかえって遠くにある比叡山との‘距離’が意識される効果を生んでいます。この水平線と垂直線の構成、木立の‘壁(…透明な屏風)’により、それぞれの空間の連続性、即ち、座敷 ― 縁側 ― 枯山水の庭 ― 近景― ・ ― ・ ― 比叡山へと連綿と続く広大な空間を取り込むことになるわけです。木立を通して見せる比叡山の表情はその日の天気の具合によって様々な味わいを提供してくれます。

しかし、始めに書きましたように、この貴重な借景庭園も周囲がことごとく開発されており、余命幾ばくもない印象を受けました。この借景庭園の説明をされていたご住職の、孤立無援で諦めとも思える落胆した言葉が耳に残ります。「どなたかこの借景庭園を守るために、お知恵をお貸しいただき、お力になっていただける方はおられないものでしょうか…」。以前は、ここでの撮影は禁止となっていたようですが、いずれこの借景も消えゆくであろうということで、訪れた人の記憶に留め置けるようにとご住職は撮影を解禁しました。

貴重な借景庭園は数少なくなりました。
今の日本は目先の利にとらわれ過ぎてはいまいか…?


◆今月の山中事情33回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−地方の映画事情−

地野菜を買いに秩父の農協の売場に出かけた。何気なく窓に貼ってあるポスターを見たら「ALWAYS・続三丁目の夕日}だった。秩父市役所隣の文化ホールで映画会をする旨貼ってあったのだ。この映画の虜になっている私は、本来ならば上映館に行って見れば良かったが、飯能市にも、秩父市にも映画館が一軒もなく、躊躇しているうちに遂ぞ行かなかった。いづれDVDが出るだろうからそれを買って見ればいいと思っていた矢先にそのポスターを見つけたのだ。

薄暮の文化ホールの駐車場は意外に空いていた。そのホ−ルはそう言っては失礼だが、意外にモダンな多目的ホールだった。観客席は三百席位だろうか、多少椅子が硬くて狭いのが難点だったが、観客席の角度が上手に計算され、前の席のお客の頭が視界を遮らず、したがって、スクリーンや舞台がクリアに見られた。
高校までは山形の片田舎で過ごした私だが、まさにこの映画がその時の時代背景であり、日活映画に夢中になっていた少年だった。そして地方の映画館で見たのは自分の田舎でだけだった。その後上京してからは専ら銀座や日比谷の映画館に出かけていたので、地方での映画鑑賞はおよそ四十年振りであった。この立派なホールを見渡しながら、私は小学生の頃の引率映画鑑賞を想い出していた。

田舎の映画館は古ぼけていて、裸電球しか照明らしい照明はなく、薄暗い館内で先生の声だけ響き渡っていた。夏は学校の体育館や野外(公園など)での映画鑑賞で、「荷車の歌」「石合戦」「路傍の石」「のんちゃん雲にのる」などの文部省選定映画だった。このホールに入るまでは、実は、田舎のそれを連想していた。そのような風景に浸りながらこの昭和三十年代の東京の街で起きる庶民の生活を垣間見ようと思ったのだが、時代はすっかり変わっていて、地方とてこのような施設が当然完備していたのである。
所で、嘗ては娯楽の王者であった映画館がこれほどまで衰退しなければならないのは何故だろう。市場メカニズムは理解出来るが、全部無くなるのが理解出来ない。これだけのヒット作品でさえもこの町では一日三回上映したらもう無理なのだ。常設の映画館を維持するには動員数が問題だからだ。現にこの日でさえ千人を超えたかその手前ぐらいであろう。当然、売り上げも計算出来てしまう。

斜陽産業となって久しいが、映画はやはり映画館で見るところに価値がある。大きなスクリーン・音量が臨場感として迫ってくる。テレビでは絶対感じ得ないから映画館に足を運ぶのである。映画鑑賞は何故かジャンルを越えて心を揺すられるものがある。自身の願望を映し出してくれるからだ。その思いは年齢や性別を超越して感じさせてくれるから、様々な映画に期待するのだろう。地方の小都市では、もはや、いつでも映画を観ることが出来なくなった。心ある人達が「上映実行委員会」を立ち上げ、上映をして頂いたから私は観ることが出来た。彼等の情熱は当然次の企画を用意してくれている。あとはそれに応える観客が、今度は二日間、三日間と上映出来るようになれば誠に嬉しいのであるが。


◆様々情報

Ryuの目読者の麻生京子さんが3週間の「パリ・コンサートと美術館めぐり」のお話しを下さいました。

私は毎年Parisに行きますが飛行機がCDG空港へ向かって高度を下げていく時にいつもFranceの大地の豊かさに圧倒させられます。Parisといえば文化、ファッションがブランド品の代名詞のように言われていますが、彼らが最も大切にしているのは農業ではと実感しています。その上にこそあのどこのスーパーで買っても美味しいフランスパンや安くて気楽に飲めるワインがあり、簡単な一皿だけの料理でも絶品なのでしょう。田舎の農家のひとも夕食の時 DebussyRavelを楽しんでいて「国を支えているのは農業であり音楽であり、美術であり、そしてきれいなフランス語ね!」と話していました。とにかく農業人が心からの誇りを持っていることは確かです。

あちこちで昼間から無料のコンサートがたくさんありますがバスやタクシーの運転手の人たちも時間待ちの間それは熱心に聴いています。農作業服のままで入ってこられて「Chopinのこの曲が好きなんだ!」などと言っているのも聞きました。

Parisの建築物は殆ど芸術的といっても過言ではないと思います。(Parisの街並を創り上げたHAUSEMANN知事に乾杯!)建物の内部はしょっちゅうREFORM(RENOVATE?)されていますが、外壁の色など楳図邸(4月発信・今月の隆眼)のようなことがあればデモ好きのParisっ子達は黙ってはいないしParis市長も市庁舎に横断幕を掲げるでしょう。ただポンピドーセンターができた時、ルーブルにガラスのピラミッドが出現した時 私には理解できなかったのに今とても斬新さを感じ、伝統を守るためには変わらなければいけないこともあるのかと遅ればせながらやっと気付いているところです。(楳図邸は論外!)

日本にも世界に誇れるもの、文化 風土など多くありますが稲作ばかりでなく大切にすべきものを、価値が判ってか判らずにか捨ててしまうことが多く残念に思うことがよくあります。