★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.65

今回より、メールの件名をこれまでの「Koiso Park -」から「Ryu の 目(KoisoPark -)」に変えました。
最近、外国からの迷惑メールが増え、横文字ばかりですとうっかり「削除」してしまうことがあるとの連絡をいただきましたし、我が家でもおこっていましたので、日本語を交ぜた方がいいだろうと考えました。

先月半ば過ぎ、久し振りに新潟直江津に鯛釣りに行ってきました。産卵期に入る前だからでしょうかメスの何と美しいことか!!
目の上に蛍光色のコバルトブルーのアイシャドウと言おうかアイラインと言おうか…が出ていましたが、それが鯛の赤みと絶妙の色合わせで、歌舞伎役者か芸者さんの顔を目の当たりにしてる様で、うっとり(*_*)(@_@)!?してしまいました。
こんな美しい鯛は初めて見ました。

では《 Ryu の 目・Ⅱ −no.65》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−「民主主義」の次は−

ある理事会で十分に時間をかけて議論伯仲した議題で「決」をとる段になり、賛成の方の挙手をお願いすると、一人の理事(大会社の社長)が発言をもとめ、「まだ反対の人がいるようなのでもう少し時間をかけて議論するべきである」とのたもうてくれました。場所はアメリカ、議長は私、この理事は日本人。思わずアメリカ人理事6名の顔を伺ってしまいました。彼らは狐につままれたような、なんと反応してよいか、という顔でお互いを見合っていました。7名の日本人理事の顔はというと、当然のような顔をしていました。正に二つの正反対の民主主義(?)を目の当たりにした瞬間でした。

一般に、世界的にも通念として、組織を代表して外部者と話したり、議論や、交渉をする際は、その組織を代表してするわけで、その人はある程度の交渉をする権限(決定権も含めて)のある人と理解してよい筈です。交渉をする権限とは交渉に伴う議決権や決定権であり、責任の所在をはっきりと意識している態度に守られます。決定権が全くなく責任を何も背負っていない人は代表とはいい難く、単なるメッセンジャーであり、個人の意思のあまりない人と理解すべきでしょう。

民主主義は、「主」である「民」が責任をとる意思あり、と表明した場合に成立します。「サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ」といえば思わず無責任時代クレイジーキャッツの面々を思い描きますが、「民主主義は気楽な主義ときたもんだ」といえば何を思い描きますか。私は日本の組織を思い描きます。ひどい、そんなこといって。といいたい人は日本の組織の中の個人に何が期待されているかをよくよく考えていただければ、お分かりいただけると思います。

私は日本の組織が悪いとか間違っているといっているのではありません。ただ、それは民主主義的ではない、といっているだけです。ある大会社の社長は平然と「大学では思い切り学生生活をエンジョイして、基礎力をつけて、変な癖のつくような勉強はあまりわが社のためにならないし、むしろやらないほうがよい。入社後に専門分野はわが社の社員教育で十分やるから」といって憚りません。日本では組織の中の下克上も少なく、内部からの分裂も余りありません。組織の意思は個人の意思といっても過言ではないので、内部分裂の危険は少ないはずです。正に「気楽な家業ときたもんだ」であり、個性の強い音楽家でありコメデイアンであるクレイジーキャッツの面々は、最大の皮肉をこめてのパーフォーマンスであったと想像します。実は「気楽どころかチャレンジングな家業だった」筈です。そして明らかにからだの何処かでそれを感じていた日本人に大受けしたのでしょう。

個性豊かな人、自己の確立を目指す教育、等々、をそのまま実践しますと、日本の組織は多分沈没してしまうでしょう。民主主義に代わる日本に適した、しかもチャレンジングな主義はないものでしょうか。それこそが、将来の日本をリードする思想となるはずです。
2008年4月15日、クレムソンにて

・話題を提供して下さった岸本雄二さんはアメリカ・クレムソン大学の(サウスカロライナ州)教授で、これまでに何度も話題を提供して頂いています。
 クレムソン大学の公式サイト: http://www.clemson.edu/


◆今月の隆眼−古磯隆生

−二千年という時間−

まずは添付した写真をじっくりご覧ください。

樹齢二千年と言われる桜です。山梨県北杜市武川村にある神代桜です。どうですか…二千年の時間を貫いてきたこの老大木の姿。言葉がありません。ただただ圧倒されます。
四月の終わり、花も散り、すっかり葉を覆ったこの桜の老大木を見る機会を得ました。この神代桜を見ようと毎年多くの人が訪れることは聞いていましたが、見るのは初めてでした。桜の咲いてる時期を目指したわけではありませんが、標高があるのでまだ桜は残っていないかな?と多少は期待して向かいました。残念ながらすっかり花を落とし葉を纏っていました。この老木を見る人影も殆どなく、老大木はそこに佇んでいました。
このがっしりと大地に根ざしたガタイの異様な迫力。老いてなお頑健なり。今なお残った枝に花をつけるようです。およそ見慣れた桜の姿とはかけ離れ、長い長い時間は老桜にこのような形を与えました。何か生命の精が棲んでいる…そんな想いをかき立てる逞しさがあります。気の遠くなる時間を生き抜いてきたこの一本の樹。人が想像しうる桜の形をはるかに越えた形がそこにありました。カミナリに打たれたのでしょうか、自然と闘ってきた姿の生々しさが見て取れますが、同時に、自然に包まれて生きてきたおおらかさも感じられます。
大きく大きく、くよくよせず大きく…と、生き抜くことの凄さを見せつけてくれます。
今月は、勇気を与えてくれるこの一本の老大木の写真を皆様にお届けしたかったのです。


◆今月の山中事情32回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−食糧の行方−

食の世界に身を置く物としては、当然のごとくそのことに精通していなければならないのだが、生来の不精者は怠りなく勉強するでもなく、「分野がある」などと屁理屈をのたまわり、山の中に引き籠もっている。過日、東京に用があり、街中をぶらつく時間があった。今さらの観がないでもないが、それにしても、どこに出くわしても、食べ物のオンパレードだ。よくぞこんなに食べ物があるものだと改めて思い知らされる。おそらく毎日、売る方も買う方も血眼になって、躍起になっている態だ。‘私達の子供の頃’と又そのフレーズを使ってしまうが、食べ物の種類が本当に少なかった。おそらく毎日同じようなものばかり食べていた食卓だったように思う。それでもこうして生きて来られたのだから「一日三十アイテムを採ろう」などとどこかで言っているのは聞き流しても良いようだ。料理を提供する者が言うのも変ですが、「食の氾濫」が病気を引き起こす大きな要因となっていると言っても過言ではなかろう。飽くなき食へのこだわりは、作り手には必要条件であるかも知れないが、消費する側に立てばもうお辞めになったらと申し上げたくなる。

折しも、世界が食糧の不足を呈してしまった。極北グリーンランドには種子を永久保存する施設をデンマーク政府(?)が造った。未来を見越してのことだが、それらの報道の一つ一つがとても重く感じてしまうのは、過剰反応だろうか。又、とあるTV番組では食料の輸入がストップすると一日の我々の食卓はこのような状況になると、品目や量を報じていた。しかし、現状にその切迫感は少しも無い。デパートやスーパー、食品店に並ぶ夥しいばかりの食品を目にすれば、一瞬食糧不足など頭に浮かぶこともなく、目の前のカーキや肉や魚などに気が引かれて行く。そのケーキは小麦が多用されている。肉も小麦やトーモロコシ等の配合飼料で飼育する。魚もしかり。しかし世界の生産者は今や食料用よりエネルギー用に売った方が高く売れることを知った。よってパン等の製品用の小麦が不足になり、世界中に不安を与えている。そしてより悪影響なのはそれが投機の対象になっていることだ。富める者はより富を求め奔走する。干魃で生産出来ないならまだしも、食糧としての生産があるにもかかわらず、製品として出来ないこの矛盾が悲しい。世界の一挙手一投足に翻弄される日本の農政はどうか。「米を作るな」という政権が続く中、農政はズタズタになっている。今こそ国内の農業を見直し、この国の農業をしっかり見据えた農業経営者をサポートすべきだ。これまで農業従事者は希望を失い、離農したり後継者の無い状況を作った。付加価値のある良質の農産物を生産する力があるにもかかわらず国の無策によって発揮出来ないできた。
ベトナムは米の輸出を禁止した。中国もそうだ。タイも続くだろう。食糧難を見据えた自衛策だ。我が国も遅きに失したが、全ての休耕地や畑に備蓄用の米や麦や他の穀物を作るべきだ。それによって農業従事者は意欲を持ち農業そのものが活性化するはずだ。余剰に出来たそれらは外国へ販路を求めればよい。役所や議員はそのプランを作り上げるために存在していることを肝に銘ずるべきだ。それが出来ない者はその職にとどまるべきではない。要は「災害が過ぎ去るのを待つしかない」の方便では済まされない国家の一大事であるからだ。