★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.63

今日は東京大空襲から63年目だそうです。
私の戦争に関する記憶は、3、4歳くらいのころ祖母に連れられて進駐軍のばら撒くガムを拾いに行ったことくらいです。動作の遅い年寄りと幼児では拾えるはずもありませんでした。
戦争はいまもって無くなりません…。

春になりました。花粉到来に悩むも、花見シーズンに突入。
年々酒量の下落が気になる歳にはなってきました。

では《Ryu の 目・Ⅱ−no.63》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は野村好彦さんです。

−租庸調の調布−

情けないことに、近ごろ些細なことに腹を立てることが多くなった。テレビニュースの字幕の誤字だとか、アナウンサーの敬語の使い方とか。漢字の使い方も気になって仕方ない。「僧りょ」や「破たん」や「自動操だ」は
なぜ「僧侶」や「破綻」や「自動操舵」ではいけないのか。一部をひらがな表記にすることによって、余計に分かりにくくなるように思う。『それとも分かりにくくしておこうという意図でもあるのか』と穿った見方をしてしまう。電車の中のポスターを見ていると、『これは変だ』と思うことがある。昨年の暮れのこと。京王線の沿線PRの、布多天神社の記事が目についた。
(http://www.keio.co.jp/press/kikou/81/top01.html)
『……昔むかしある村人が木綿の布の織り方を長者さまに尋ねるが、長者さまも知らない。そこで当天神に七日七夜こもって祈ると、どこからともなく白髪の神様が現われ布の織り方を教えてくれた。これがわが国の木綿布の始まり。この布を租庸調(税)の調として納めたので調布。地名の由来ともなりました…』この話には重大な間違いが二つある。たぶん二つだと思う。何となく歯切れが悪いのは、天神さまのことなので、<クワバラクワバラ>とどきどきしながらこの文章を書いているからである。

ひとつめは、租庸調の税制度の時期のずっと後に、菅原道真大宰府に流されて不慮の死を遂げ、その結果、天神さまになるのではないのか。『この話は時間がさかさまではないか』。
ふたつめは、木綿(cotton)布の始まりの時期についてである。木綿(cotton)が日本人の衣料となるのは室町末期、15世紀の終わりからである。

永原慶二の「苧麻・絹・木綿の社会史」によると、木綿の国内生産の初見は、文明11年(1479)。「金剛三昧院文書」にある、「筑前国粥田庄納所等」での栽培、とある。さらに、「木綿は絹のように国家や領主の現物収取の対象とされることはなかった。…最初から商品作物かつ実用衣料」として存在した、と論じておられる。木綿布の誕生とその普及の過程は、日本社会の歴史を考える上で重要な地位を占めている、と言えよう。遺憾ながら、柳田國男の『木綿以前の事』を読んで「目からウロコ」の経験をしたのはごく最近のことなので、どうしてこういうことを学校では教えてくれなかったのかと悔しく思ったので、力説する次第である。

木綿(cotton)が日本国内で自給自足を達成するのはようやく江戸時代の半ば、将軍吉宗の頃だった。ここで、木綿(cotton)とわざわざ英語表記を加えて煩雑な表現としていることに付言したい。それは、「綿」という文字・言葉が多様に使用されているということである。ややこしいことに、「綿」という文字・言葉は、cotton以外でも使用されるからである。
真綿(マワタ)や綿帽子(ワタボウシ)という言葉がある。「『真綿(まわた)』は、植物性繊維か、動物性繊維か」という問い掛けを、若い世代の人たちにしてみると、よく分かる。モメンは植物性繊維であり、マワタは蚕の繭から作られる動物性繊維である、と正しく答えられる人は多くない。それどころか「マワタって何?」と聞き返される懼れも小さくない。真綿を見たことも触ったこともない世代が増えて来ているのである。残念ながら武蔵国の絹布は優品ではなかったが、苧麻布は優品であった。たぶん、古代のミヤコの人々は
東国の産品を馬鹿にして、歌いはやしたのであろう。あまりの嫉妬のあまり、遂に発してしまう、悲しい言葉のつながりである。
 『賎(しず)や賎(しず) 賎(しず)の苧環(おだまき)』
苧環は、カラムシの繊維を一本づつ糸に取り出す根気の要る作業を経て、ようやく作り出される長い一本の糸で出来た塊、糸の玉である。
さて、カラムシに興味を持たれた向きは上記の永原先生の著作を参照されたい。
年寄りの小言のようなことを書いてきたが、ことほど左様に私たちの先祖がどのようなものを身に付けていたのかだとか、そのほかきわめて基本的なことについてふと考えると、意外なほどその歴史や変遷を知らないのは、
小生だけであろうか。

食の自給率が大問題になりつつあるが、天神さまのポスターをきっかけに、衣の自給率に思いを馳せてみた。原油の値段が上昇して合成繊維の値段が高騰したら、わたしたちは何を身に着けるのか。カラムシや麻どころか、木綿・絹・羊毛などの天然繊維の国内自給率はいったいどれぐらいになっているのか。
歴史を忘れてしまった結果は、未来が読めなくなるということらしい。
  
・話題を提供して下さった野村さんは「★ Ryu の 目・?☆ no.6」で話題
提供していただきました。久々のご登場です。



◆今月の隆眼−古磯隆生

−再び尾形光琳

二月の第四土曜日、昨年に続いて熱海MOA美術館尾形光琳紅白梅図屏風」の定期公開を見に行ってきました。熱海駅周辺の桜が既に咲いていたのには驚きました。
今年は尾形乾山展との抱き合わせでした。昨年、初めて光琳の「紅白梅図屏風」を感動をもって見た生々しい印象が未ださめやらない内の再会で、その凄さに改めて驚かされた3時間でした。
前回(2007年2月発信 Ryuの目?・no.50)は紅白梅図に見られる‘対’について話しましたが、今回は‘同調synchronize’の不思議な効果を感じました。画の中央を支配するゆったりとした黒い大きなうねり文様の中に、細かい規則性を感じさせる流れの文様が描かれていますが、この双方が同調し合って視覚的により複雑な動きを感じさせることになり、画面中央で‘文様のうねり'が動き出す様です。対比的に両脇の紅白梅がそれを静視するかのように静寂感を漂わせており、この“動”をより際立たせます。
全体を支配的に構成する金箔の金と墨の黒が対比して使われ、様々な対比と同調が一つの画面の中に織り交ぜられて不思議な空間を現出させていることに気づきました。
曲水を想わせる中央の流れは次から次へとその流れを展開させて行き、春爛漫の時空をとめどなく彷徨させてくれるようで、まるで音楽の中を浮遊しているような感覚に陥る、そんな世界でした。
新たな発見がありました。光琳の「蹴鞠布袋図−出光美術館蔵」です(写真貼付)。画面の左右上下の中央で布袋さんが蹴鞠に興じています。その蹴り上げた右足の表情が何とも愛らしい。空に浮いた鞠は中央からわずかに左に逸れています。布袋さんの袋は画面下方右寄りに放置。落款は中央真下。ユーモラスな雰囲気の漂うこの絵は、中心軸との微妙なズレ、低い重心、というとてもシンプルな構成によって一挙に空間を出現させました。
機会があったら一度ご覧になって下さい。



◆今月の山中事情30…2題
             −榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−戦争−

私達の子供の頃は、戦後とは言えまだ戦争の残滓が有形無形に色濃くあった駐留軍のカーキ色のトラックやジープが砂塵をあげ、空港から町へと行き交っていたことを私は鮮明に覚えている(現山形空港)。復員した男達は時に自慢気に戦争の話を聞かせてくれた。学校の先生とて例外ではなく、授業をしないでそんな話をしていた先生もいた。中には、戦争は絶対いけないことだと説く人もいて、私も子供心に戦争に対し拒否反応を持った。
時は流れるが、ここ十五年前位までは別の「戦争」意識を持って特定の人と接していた。その頃まで私の店で繰り広げられていた「復員兵」の方々の話だ。ある夕刻、北支(現中国北部)に行かれた方、南方戦線に行かれた方、インパール作戦に従軍した方が集まる。当時すでに七十歳に手が届く方ばかりだったが、異口同音に述べるのは、なぜ戦争が起きなぜ戦争に行ったのかは説明できないと言うのである。戦争とは納得して行うことではなく、いかにそれが無意味であるかを如実に語る言葉として今も私の脳裏に残る。
しかし、このところそんな「戦争」のニオイがする話もさっぱり聞かなくなった。世代がどんどん替わり、戦争体験者が若者を掴まえて一杯話すシーンなど見かけなくなったのだ。
だが、全く別のところから別の「戦争」のニオイの付いたニュースが飛び込んできた。自衛隊イージス艦「あたご」と漁船の衝突事件だ。イージス艦とは戦争目的の艦船である。ゲームのための艦船ではない。ハワイ沖での日米合同演習に於いて、我が国のイージス艦より発射されたミサイルが標的物に命中し、日米双方の兵員が大喝采して喜んでいるところをニュースは流した。「あたご」はその時の艦船であったかは私は知らない。だがその四ヶ月後、野島崎沖にて事故を起こし、国民の悲憤をかこっている。
戦争は終わった筈だが、その戦争を近代兵器の権化によって再度、再々度、私に「戦争」を思い起こさせた。こうして我々は間断なく「戦争」を感じていなければならないのだろうか。
国を守という国是の中で、又、新たな犠牲者が出た。


−寒気団−

三度目の冬は寒さと雪でいじめられた。さすがに、こんな所まで危ない目をして来てくださる方は少なかった。雪国ではないので対処の仕方も中途半端だ。むしろ根雪になるほど降ってくれるなら「冬眠」という方法もあるのだが、温暖化の狭間の中でたまに降る雪ゆえそういう訳には行かない。事実、昨年も一昨年も花を見に来たり、イチゴ狩りに来たりと、行楽の人々の車は行き交っていた。
雪はその純白の衣で世の汚れを覆い隠してくれる。あらゆるところを白一色にしてくれる自然の魔法は壮観この上ない。やめれば良いのに、人間も機械的に雪を造ってはいるが、圧倒的な量と景観はかなう筈もない。そんな景色も雪国のそれとは違い、わずか一日か二日で脆くもその姿を元に戻し、なんとなく汚れたものを改めて見せつけられるようにも思う。綺麗なものゆえにそれが悲しい。

髑髏(どくろ)なり哀れ溶けたる雪だるま…やいち