★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.60

紅葉もほぼ終わり、年末・年始に向けた慌ただしい日々をお送りでしょうか。
何だか一年が早くて・・・次回は新年号です。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.60》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は 服部光子 さんです。

−トルコ旅行記

高井伸夫法律事務所主催のトルコ旅行に夫と共に参加しました。10月7日から8日間の旅でした。このツアーは高井弁護士が「桃源郷を訪ねて」シリーズを関係者に呼びかけて実現しているもので、今回は第6回目でした。そんな訳でメンバー同士はお馴染みの顔ぶれであったり、又新しい出会いがあったりと、普通のツアーと一味違った密度の濃い交流のある旅であることが特徴です。今回は25名集まりました。

イスタンブール> 
成田から12時間。ホテルの部屋からボスボラス海峡を行き来する船が遠く見えました。翌早朝5:30頃まだ暗い中、窓を開けると、コーランが響いていました。しばし身の引き締まる思いで聞き入りました。ラマダン(断食)の時期でした。イスラム教徒は日の出前と日没後しか飲食できません。ガイドさんによると、イスラム教はこの「ラマダン」と、礼拝時の「立ったり座ったり」の動作も併せて健康にいい宗教だそうです。トルコ国民の90%はイスラム教徒です。
有名な「ブルーモスク」(写真)も見学しました。「ブルーモスク」は西のメッカに向かってステンドグラスが美しい光を放っていました。旅の間中、大小様々なモスクがいたる所にありましたが、どのモスクにも「ミナーレ」という尖塔が立っています。塔の上には礼拝を知らせる為の拡声器が付いています。この「ミナーレ」の数でモスクの規模がわかるそうです。ちなみに「ブルーモスク」は6本で一番多いそうです。
その他、アヤソフィア、グランドバザール、オスマントルコ繁栄時のトプカプ宮殿、貯水用の地下宮殿、オリエント急行終着駅であるスィルジ駅、ベリーダンス・・詳細は省略しますがどれもワクワクさせてくれました。

アンカラ
84年前、トルコの英雄・アタチュルクによって首都に定められました。イスタンブールだと侵略されやすい地形なので、内陸に移したそうです。バスの窓から真っ赤なトルコ国旗がいたる所にはためいているのが見えました。危険が迫った時は、国旗の下へ来るように、という目印だそうです。危機管理、危機意識は島国ニッポン人からは考えられません。「自分の国は自分で守る」・・・トルコ国民の愛国心の強さにカルチャーショックを受けました。と同時に、我々は日本国民としてアイデンティティがないのでは・・と考えてしまいました。今、不穏な空気の中にいるトルコ国民を私は複雑な思いで見守っています。

ラクダの隊商宿>
シルクロードを行き交うラクダの隊商の群れ・・夜通し歩くのは危険なので、30km置きに宿があったそうです。そのひとつが、動物の匂いと共にまだ残っていました。

<パムッカレ>(写真)
T.V.などでお馴染みだと思います。温泉の石灰分が景観を生み出しています。ほんのひと時、足湯に浸りました。

カッパドキア>(写真)
数億年前に起きた噴火で溶岩の中の石灰が溶けて変形していったものです。きのこに似た形でお馴染みです。キリスト教徒が隠れ住んでいた洞窟も沢山残っていました。

<カイマクル地下都市>
キリスト教徒がアラブ系民族の迫害から逃れる為に作った地下都市。地下4階くらいまで見学しました。何千人もの人々が半年間くらい外に出ずに生活できたそうです。通気口もあり、閉所恐怖症の人も大丈夫とのことで、息苦しさはなかったです。

<エフェス>(写真)
都市ができたのは紀元前10世紀頃ですが、これはローマ帝国支配下の紀元前130年頃の遺跡です。トルコで何故ローマ?・・と思いましたが、愚問ですね。写真の通りは繁華街、いわば銀座通りのようなものだそうでエーゲ海に続いています。24,000人収容の劇場、神殿、図書館、売春宿・・図書館の向かいは売春宿でした。図書館へ行く振りをして売春宿へ通った楽しいお話もありました。まだまだ発掘作業は続いています。当時の集団公衆トイレ(写真)には驚きました。底は深かったし、水も流れていた
ようです。青空、海風・・そこで用を足しながらどんな話に興じていたのでしょうか?
笑い声も聞こえて来そうでした。
勝利の女神・ニキ(運動の神様)、NIKE(写真)・・スポーツシューズ「ナイキ」の名前と商標はここからきています。レリーフにあるお馴染みの「ナイキのマーク」、お分かりでしょうか?左手に月桂樹の冠、今も勝利者には与えられますね。ちなみに「エルメス」の馬の商標や、「グッチ」の商標のレリーフもありました。ブランド品も世界史なんですね。「浴場」もどこの遺跡にも存在していますが、もともとは長い船旅で体が汚れきっている奴隷を奇麗に洗って売買するために出来たものだそうです。

イズミール
数日前にテロがあって怖いと思っていたことをすっかり忘れておりました。ここではトルコ最後の夜となり、夕食をとったレストランからホテルまで海岸通を歩きました。金曜日の夜のせいか、若者たちで大賑わい。若者が差し出す水タバコを吸って鼻から煙を出し、喝采を浴びたN氏とU氏・・私もテンションがどんどん上がってゆくのが自分でもよくわかりましたが、手を振ったり、投げキッスが精一杯(?)でした。

<ボスボラス海峡クルーズ>
帰国する日は再びイスタンブールへ戻りました。そぼ降る雨の中を出航しました。イスタンブールの「別れの涙雨」?いやいやそんな甘いものではない。これまで常に危険の中にあったトルコ共和国の「むせび泣き」のように思えました。
デッキに出て熱いトルココーヒーを楽しみました。肌寒さも手伝ってか、とても美味しかったです。地中海と黒海に挟まれ、数々の戦いがあったであろうボスボラス海峡を挟んで、イスタンブールはアジア側とヨーロッパ側に分かれています。途中、城砦もありました。敵をかわすために上手く作られていました。そんなトルコだって出自はモンゴル系遊牧民であり、騎馬民族として名を馳せていたということです。その脅威の為、中国・秦は万里の長城を作ったではないか・・歴史は繰り返される・・そう思います。

<後記>
この旅はトルコの人々との触れ合いが少ない旅でした。バスからバス、いつも制限時間付でありました。年配者も多いし、安全を図ってのことだったのでしょう。いつか、その国の人々と触れ合って、のんびりと心行くまで過ごせる旅をしたいものだと私の夢は膨らみます。ガイドはトルコでNo.1と言われているニハトさん(男性)でした。32歳とは思えないしっかりした考えの持ち主でした。特に日本に興味があった訳でなく、失業率13%のトルコで、就職の為に先生から勧められてアンカラ大学で日本語を学んだそうです。他国の言葉でここまで世界史を語り、様々な説明をし、そして感動を与えることの出来る人は一体何人いるでしょうか?ニハトさんのガイドによって旅が数倍楽しめました。メンバーから「外交官以上の役目を果たしている。」との声も聞こえました。皆、ニハトさんに出会って満足していました。

「トルコを伝えて欲しい」・・ニハトさんのメッセージでした。もう一度ニハトさんにお会いしたい気持ちで、書かずにいられない私でありました。トルコは歴史の深い大国です。つくづくそう思いました・・・お読み下さり有難うございました。


◆今月の隆眼−古磯隆生

−都会の宝…ICUの自然−

初冬に入った12月の始め、久し振りにICU(国際基督教大学)の広いキャンパスを訪れました。一昨年、このキャンパスで見た黄葉したイチョウの美しさが忘れられず、今年は何とかして訪れたいと思っていました。紅葉のピーク時は過ぎてはいたものの何とか機会が出来、黄昏時までは一時間ほどの傾きかけた日差しの中、それでも様々な樹木の紅葉、常緑樹の緑が鮮やかに迎えてくれました。
紅葉した桜の葉はほぼ散り終わっていましたが、欅の紅葉や楓の真っ赤に紅葉した姿が眼前に拡がります。街中の切りきざまれた欅ばかりを見せつけられている‘都会人'には久し振りの伸びやかに枝を張った欅らしい姿を見ることが出来ました。
その下をカサカサ音をたてながら程なく歩いて、あのイチョウのもとにやってきました。少し時期が遅れたせいか、前回とは違ってすでに落葉が始まっており、そのイチョウの周りは黄色の絨毯を敷き詰めた様です。もったいないような一面の黄色い落ち葉の中(写真貼付)をサラサラと音を立てて歩く…何とも言えない至福の機会でした。
1時間ほどの紅葉との戯れでしたが、静寂の中、落ち葉を踏む音は限りなく聴覚を刺激し、赤、黄色、緑の様々な色の取り合わせは目を楽しませ、漂うイチョウのわずかな香りが嗅覚を覚醒させます。感性がことごとく刺激され、都会の喧噪に浸ったこの身を回復させてくれました。都会の中の貴重な自然、これは宝物!


◆今月の山中事情−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

山中事情27
−村祭り−
盛秋の秩父郊外のとある村祭りに出向いた。歌舞伎公演が出色であるらしい。これまでメッカの歌舞伎座にも、国立演舞場にも、三越の劇場にも、一度たりとも歌舞伎というものを観賞しに出かけたことはなかった。その私がひょっこり現れたその村のお寺の住職の一言で行くことになった。住職はこの祭りの世話役でもあったが、決して「見て欲しい」と言う切なる願いでもなかった。だが何となく惹かれる思いがあったのか、夕刻早めに店を仕舞い、トコトコと車を走らせた。山の夕刻とは言え、まだ陽は残っていた。坂道を下ると「えも言われぬ光景」が目に飛び込んできた。江戸時代の佇まいがそこにあったのです。私の田舎にも所々にあった簡素な茅葺き屋根の建物が目の下にあった。
公道からゆるやかな坂道が続くその辺りは昔からの河川敷だった。小さな神社が祭られ、一帯は鎮守の杜となっている。その奥の方には、刈り取られた稲束が干され、稲株が愁然と残っている。濃い緑の大きな里芋の葉が、夕方の風にわずかにゆれていた。
参道とは名ばかりだが、その両側にわずか三、四軒の屋台が出ている。一角には農作業用の道具を置く細長い小屋があり、そこを利用して地元在住の画家や写真家や陶芸家の作品がまばらに陳列されていた。絵に関心があったので薄暗い「ギャラリー」の一作一作をゆっくり見せて貰った。小品の油絵ばかりだった。モチーフはこの歌舞伎の舞台や役者を描いているものばかりだったが、とても良い作品だった。

そんな散策をしているうちに辺りはそぞろ闇が訪れ、参道を照らす手造りのボンボリが淡いオレンジ色をほのかに放ち、幽玄の世界を醸し始めた。歌舞伎の舞台も照明を受けて漆黒の闇に浮かんでいる。ここまでの過程は、私の思い描いていたこととはかなり違い、その素朴な光景にむせび泣きたくなるほどだった。なぜなら、私にとって「お祭り」とは、実はこのような型を原風景として抱いていたからです。永年都会に住み、物量的な、その主旨さえ解らない「祭り」をずっと麻痺して、見せつけられて来たからだ。大騒ぎをし、ただ練り歩く「祭り」の型を見るにつけ「これは祭りではない」と言い続けていた。
百人にも満たない観客しか居ないこの祭りがなぜ私の心を打ったのかと言えば、永々と文化として根ざし、それを拠り所としているからだと思う。諸々のことは書くことを辞すが、一つミスがあった。前もって最低の知識をもって歌舞伎を観賞すべきだった。知らないものを見聞することは礼儀として当然であり、そこに居る時間の長さを改めて知った。村の歌舞伎鑑賞はこのように誠にもって観客として惨めで失礼な輩だった。来年はしっかりと知識を得て観賞させていただくことにする。
青黒い空に三日月があった。