★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.59

紅葉のシーズンになりました。
先月の二十日過ぎに宮城蔵王に寄りましたが紅葉はこれからというところでした。
今年はどんな紅葉に出会えるでしょうか。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.59》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は村上逸郎さんです。とても貴重な話を提供してもらいました。

脳梗塞−                         

私は「Ryuの目」の古磯君とは高校時代の同級生ですから今年61歳になりました。職業は製薬会社に勤めるサラリーマンです(でした)。酒はよく飲む方です。30歳になる前頃から、毎日夕食から就寝するまでの間は延々と飲む生活を30年余り続けてきました。その頃から血圧も徐々に高くなり、とうとう50歳台になる頃には降圧薬の服用にもかかわらず通常、上(収縮期血圧)が180程度、下(拡張期血圧)が120程度まで示すようになりました。臨床医学的には立派な重症高血圧症です。肝機能値も徐々に高くなりASP(GOT)、ALT(GPT)が近年では100前後を示すようになりました。その他、やや肥満体、コレステロール値異常、尿酸値異常、眼底(動脈硬化)検査要注意、等々、御多分にもれずメタボリックシンドロームの範疇です。だから日頃、やがて来る自分の死因は、多分、脳血管障害、そして寿命は67±5歳と勝手に計算し、広言していました。そんな私がついに脳梗塞になったのです。

今年2007年5月10日(木)、この日はいつも高血圧の薬を処方して貰っているかかりつけ医(消化器領域が専門の開業医)から健康診断として胃カメラ検査を勧められていましたので、早朝から絶食状態にして受診しました。苦しい思いをして胃カメラを飲み、胃内撮影の最中「胃にポリープができていますネ、今、取っちゃいますか?」と聞かれたので「ウン」(口が利けない)と頷いて、そのまま内視鏡でポリープ切除術を受けたのでした。胃は術後大出血を起こし易いのでお酒はしばらく控えてくださいと言うので、今日1日ですかと聞くと、いや1週間くらいはと言う。ウヒャーそんなにですか!と反応すると、2週間は禁酒しなさいと言う先生もいますよ、と釘をさされた。しかし、その日の夕食時、早速、ビールくらいなら何とか耐えるだろうと勝手に解釈して、缶ビール1本を飲みました。
とはいえ、多少の罪悪感もあり、夜、大丈夫かなと気にしながら風呂に入り、いざ上がろうとして何気なく首を回した時、首の動きに目の感覚が一瞬ついて行けてないというか、そんな違和感「めまい」を感じて“アレッ”と思ったのでした。二三度繰り返しても同じことが起こります。しかし、胃ポリープを切除した日にアルコールを飲んで風呂に入ったので、神経反射性のめまいもあり得るかと自分を納得させてその日は寝みました。ところが翌朝5月11日(金)になっても依然“首を急に回した時、首の動きに目の感覚が一瞬ついて行けない”感覚が消えないのです。気分もすぐれず、この時点で、こりゃ単なる(胃の)反射性のものじゃなく中枢性(すなわち脳性)の可能性があるなという予感がありましたが、(そこは素人で)症状が特に進行するようでもないし、このまま一過性で治まることを信じながら過ごしました。
そして夜、再び風呂に入った時、今度は完全な異常に気づきました。42℃設定の結構熱い湯に浸かっているのに右半身がぬるくてくしゃみが出るのです。右半身と左半身で完璧に温度感覚が違っているのです。初めての経験です。右半身、左半身に触って比べると右半身は多少感覚が鈍いようです。ここに到って脳梗塞(もしくは脳出血)になったと確信しました。進行が急激でないことから多分脳梗塞だろうと思いました。

翌5月12日(土)、自分では脳梗塞にまず間違いはないと思ったものの、今日は土曜日でもあるし、特に生活上に大きな支障がある訳ではないし、どこの病院に、どのようにかかったものかと迷いながら過ごしました。というのも、脳梗塞ではMRI検査による診断と専門医による治療が必須ですが、私の住んでいる奈良ではその条件を満たすと思われる総合病院である県立病院の診療を受けるには医師の紹介が要るのです。かといってヘンな病院に駆け込むと助かるものも助からなくなる、あとで転院しようにも面倒なことになる・・・という迷いでした。一過性の症状で済んでしまう期待感も依然あったかもしれません。一日迷った末、専門外だがまずは明日かかりつけ医を受診して県立病院を紹介して貰うか、と思い始めながら夜を迎えました。ところがついに、深刻な症状が現れました。その夜、気を紛らわせるためいつもの焼酎の水割りを何杯か飲んでいたところ、突然それを飲み込めなくなってしまったのです。唾液も飲み込めません。嚥下障害です。特に喉の右側が機能しなくなっているように思えました。このまま流動食だけの生活になることが頭をかすめました。少し焦りを感じる中、喉の麻痺は多少アルコールの影響もあるかもしれないと時間をかけて様子をみましたが変化はありません。布団に横になっても、唾液が口に溜まるためほとんど一睡もできないまま翌朝5月13日を迎えました。

5月13日早朝、かかりつけ医に脳梗塞症状の可能性がある旨電話して、受診しました。日曜日で午前診療のため患者さんで混雑しており3時間近く待たされてやっと受診できました。医師に症状を話すと、特に診察もなく、専門の県立病院の脳神経外科に紹介状を書くので明日の朝一番に受診しなさい、急激な進行もないようなので大丈夫でしょう、と言われ紹介状を書いていただきました。すでに午後になっていました。脳神経外科を受診すれば多分そのまま入院となることは予測できましたので、医師の資格を持つ実家の兄にその旨メール連絡しておきました。すると、間もなく兄から電話がかかって来て“何を悠長なことをしている、すぐに救急外来に行きなさい、脳梗塞の症状が出ているなら必ず救急は受け付けるはずだ、時間が勝負だ!”と大目玉です。すでに夕刻になっていましたが、県立病院の救急外来に電話してみると、なるほど“すぐに来院しなさい”ということになり、ここで漸く県立病院脳神経外科受診となりました。
担当医は若い気鋭の脳神経外科医師という印象でしたが、手順は慎重でした。問診により経緯から脳梗塞の可能性が高いと思うが、血圧が高いので脳出血の可能性も否定できず、下手に処置をすると取り返しがつかなくなるからと、まずは(休日で不在だったと思われる)放射線科技師さんの到着を待って、CT検査、MRI検査等の検査を行いました。その結果、やはり脳(脳幹)に梗塞が見つかり「脳幹梗塞」と確定診断され、ただちに緊急入院の手続きが取られ、治療の開始となりました。ショックだったのはその検査で、脳幹部の新たな梗塞だけでなく、小脳に大きな古い梗塞痕があること、さらに脳幹や小脳を支配する脳底動脈に続く左右の椎骨動脈のうち1本が動脈硬化でほとんど血流が認められなくなっているということが判明したことでした。端的に言えば、脳梗塞は今回が初めてではなくここ何年かで続発しており、高度の動脈硬化により一部の脳血流が途絶えており、今後も非常に再発し易いということなのです。
入院したベッドではすぐに何本もの持続点滴の管に繋がれました。看護婦さんに点滴剤の内訳を聞くと、患部保護のため脳血流量を増やすためのリンゲル液、血液が固まりにくくするための血小板凝集抑制剤、脳保護作用のフリーラジカルスカベンジャーといわれる新薬、血圧降下剤、そして栄養製剤等とのことです。その夜は夜通し、30分〜1時間間隔で看護婦さんが見回り検診に来ました。あとで聞くと、症状急変の可能性も心配した担当医から特別の見回り指示が出ていたようです。嚥下障害の影響もありこの夜もほとんど眠れませんでした。でも、幸いなことに入院してからの経過は順調でした。
一番困ったことになったなと思った嚥下障害も、入院3日目にはかゆ食が何とか摂れるようになり、以後徐々に回復しました。それと同時に、24時間の持続点滴からも解放され一部を除き経口剤に切り替わりました。入院中、ずっと医師からは目が閉じにくくないか、目の焦点が合いにくくないか、よだれが垂れ流しにならないか、口が利きにくくないか、手足を動かしにくくないか、呼吸は大丈夫か等々聞かれましたが、特にそういうことは起こらず、右半身の知覚異常(麻痺)の影響で歩行時に多少ビッコをひく程度だけで済みました。そして入院1週間後には通常食になり、2週間後には点滴も投与終了、そして3週間後には退院となりました。

私の場合、梗塞部位が生命維持中枢の集中する脳幹部であったので心配すべきことがいろいろあったようですが、ごく微小な梗塞だったので大事には至らなかったようです。また中心線から僅かに左寄りの部位だったため、首から下は右半身に異常をきたしたようです。異常としてはほぼ知覚異常(麻痺)だけで済みました。たとえばじかに皮膚に触れても布を通して触れているような感覚です。温度感覚の異常もそうです。“右半身”と言えば本当に右半身で、身体の中心線から一寸でもずれると右と左とではきっちりと感覚が異なります。胸、腹、尻、そして羞恥心を抑えて言えばペニスの先までそうです。厳密さに妙に感心しました。逆に首から上は梗塞部位と同じ左側に異常が出るそうで、自分では気付きませんが医師によれば僅かに左側に顔面麻痺が出ているそうです。そう言えばあくびをする時無意識に健側の右に顔がゆがみます。ただし、綿棒で耳の掃除をする時は何故か右側の耳腔の方が感覚の鈍さを感じます。何故かは医師に尋ねてもよく分からないそうです。
治療に関しては、最近、脳梗塞に劇的効果をもたらす薬剤としてマスコミでもよく取り上げられているt-PA(組織プラスミノゲンアクチベータ)という薬剤は脳梗塞の原因となっている血栓を溶解する注射薬ですが、逆に副作用として深刻な脳出血等を起こす可能性があるので発症から3時間以内の場合のみ適応が可能とされていて、今回の私の場合のように発症後何日も経過している場合はむしろ危険なため使用されません。この場合は脳血流を増やすなどしてできるだけ脳組織の損傷の拡がりを抑え、また血液の凝固を抑えて更なる梗塞の発生を抑えるというのが治療の中心となるようです。現在退院後の私は血小板凝集抑制剤と血圧降下剤のみを服用しています。
それから、今回の私の場合は多分“ラクナ梗塞”と呼ばれる微小で発生部位によっては無症候のこともある比較的軽い脳梗塞だったようで、発症時の症状も緩やかであったため受診までぐずぐずしてしまいましたが、脳梗塞脳出血)の治療は分単位、場合によっては秒単位の時間が予後の明暗を分けるようですので、とにかく一刻も早く救急外来に駆けつけることが最も大切なことのようです。脳梗塞の症状があると告げて受診したにもかかわらず、3時間近くも待合で待たせ、かつ即刻ではなく翌朝の専門医受診を指示した私のかかりつけ医に関しては、専門外といえども申し訳ないがその資格に欠けると判断し、わがホームドクターたる立場からは今後外れて貰いました。

入院して初めて知ったのは看護婦さんたちの優しさでした。彼女たちは9時−17時、17時−深夜1時、深夜1時−9時の3交代制のようでしたが、これまでの人生でこんなに女性に優しくされたことがあったかなと思うほどでした。また、自分の寿命予測に関しては、2歳早めて65±5歳に修正しました。すでにレッドゾーンの中にいるぞという自覚です。夕食後延々と飲む寝酒だけは今のところ自重しています。まずはあと4年、お蔭で、ある意味貴重な緊張感の中にいます。


◆今月の隆眼−古磯隆生

−萩の士族屋敷−

山口県萩市に「旧湯川家屋敷」という士族の住宅が残っています。江戸末期から明治にかけてのものらしい。玄関や座敷、茶室のある主屋と土間を挟んで台所が設けられ、お風呂は別棟で、それ自体は特に変わった配置構成ではありません。が、この住宅を特徴づけているのは何と言っても<ハトバ>と称せられる“水場”です。藍場川という巾一間半くらいの用水路に沿って建てられたこの住宅は、その川から水を引き込んで庭の池を作り、更にその水は建物の下をくぐらせて台所に流れるようにしています。台所には野菜や茶碗洗いとしてこの水を利用するために、土間より石段を数段下りた所に作業場があり、これを<ハトバ>と称しています。この水はそのままもとの藍場川に戻っていきます。お風呂もこの藍場川の水を、やはり<ハトバ>を設けて直接汲むように出来ています。
とても面白い水の使い方で、感心させられました。そして、私が興奮させられたのは、この建物の川沿いの外観と光の取り入れ方です。川に沿って屋根が架けられた“平入り”形式のシンプルな佇まい。外壁は板張りですがお風呂屋が焼杉の縦板張りになっているのに比べ、台所屋の方は幅広の横板張りになっていて、その頃としてはめずらしい張り方。この異なる張り方が単純な外観に微妙な面白味を漂わせますが、際立っているのは、台所、風呂の<ハトバ>の部分で、風呂の<ハトバ>は水が汲めるように外壁の一部が藍場川に向かって斜めに突き出し、平面的になりがちな外観に立体感をもたらしています。
一方、台所の<ハトバ>は石の護岸を切り割いて簾状に竹を設け、その上部に窓、更に上部にわずかにのぞく切り妻屋根(平入りの水平な流れにアクセントを付けるかのように切り妻の一部がのぞく)。この三層構成が内側から眺めると、実に光をうまく取り入れることになっています。簾状の部分は<ハトバ>での洗い作業に光を配り、窓は台所作業に光を差し入れ、切り妻の三角部分からは高窓として土間全体に光を渡らせている。日差しの向きによっては台所ハトバの水面で反射した光が天井を射している。この内側での“必要”が外側の“構成”にバランスよく素直に反映され、実に楽しい外観を作り出すことになってとても健康的な感じを受けました。
写真を貼付しますが、もっと詳しく見たい方はインターネットでご覧下さい。
http://teru.twincle.net/kokunai_4%202006/7%20hagi_jyoukamati_sannsaku/6.htm



◆今月の山中事情26…2題 − 榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

歯科医師S先生−

富ヶ谷時代より永きにわたり御厚誼を賜って居ります世田谷にお住まいのS先生より、十二月二十二日をもって歯科医院を閉院する旨の葉書が届いた。お父様の代より数えて七十二年の歳月が経つと言う。S先生はその内の半世紀を越えて地域医療に携わって来たとのことです。
戦中戦後の混乱期、ともすれば医療より食うことが先決であった時代、お父上は歯科医療の大切さを説き、まさに「赤ひげ」のごとく治療にあたられたことを以前Sせんせいから伺ったことがある。
時代は移り、その後任としてS先生が地域に根ざした歯科医院を受け継ぎ確固たる地域医療を続けて来た。私は何度となくお宅を訪ねていながら、親が私に丈夫な歯を与えてくれたお陰で、とうとうS先生の治療を受けることはなかった。閉院の報は患者でもない私でさえ青天の霹靂で、一抹の寂しさを感じた。出来ればもう少し続けて欲しいと思うのは私だけではないだろうが、人には決断しなければならない時期もあるわけで、熟慮に熟慮を重ねた結果だと思う。横丁や露地、大通りに中通り。人は永々とそこに歴史を築いて来た。それぞれの建物は、ある時には町の道しるべとして、その町の景色に当然のように溶け込んでいる。日々は何も気づかずに通り過ぎているが、いざその一角にあったものが無くなっていると何故か寂寥感を持つのは私だけではあるまい。
私も三年近く前にそうしてしまった。どのような業種も、そこで仕事をしているということは絶対的地域貢献をしているからだ。S歯科医院のネームプレートがはずれる日がそれだけに無性に寂しい。


歯科医師A先生−

浦和市に開業されているA先生からしばらく振りで電話をいただいた。
「もしもしAです。お久しぶりです。お元気ですか?」
「どうも先生お久しぶりです。ハイお陰様で元気にしています」と私。
「それはそれは何より。忙しいですか?」
「イヤー、忙しいと思う日は滅多にありませんね」と私。
「ああ、それは良かった。良かった。繁盛などしない方がいいんですよ。忙しいのがいいというのは若いうちのこと。今さら忙しさを求めては駄目ですよ。もう歳なんだから。“はやらせない店作り”が大切ですよ」とおっしゃる。
電話のむこうのA先生に対して私は怪訝な気持ちになったが、その含蓄あるお言葉がすぐに理解出来た。要するに私がここに居ると言うことは、そういうことだったのです。そこのところに気づかず、すっきりしていなかった。「はやらせない店」作りを標榜しながら仕事をやって行く姿勢がまさしくこれからの私の課題なんだと変に納得したのです。
A先生は続けて、「明日、伺いますがやっていますか?」
「明日ですね。お天気が悪いようですがいかがされますか?」と私。
「何言ってるんですか。天気が悪い方がメリハリがあっていいじゃないですか。むしろ槍でも降って貰いたい位ですよ。それでは又明日電話します」
「ハイかしこまりました。明日は槍を降らせてお待ちいたします。」と私は言って電話を切った。
次の日、首を長くして待っていたが現れなかった。電話もなかった。それからずっと来店してくれません。しかし、私のことを案じて下さるお客様が居ることだけは確かがだ。