★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.51

俄然早い桜の開花が予想されます。
花見を楽しむにもそれなりの心の準備というか雰囲気作りというか、いずれにしましても間合いが….
3月、4月はやはり気分一新の時期です。
統一地方選挙の喧しい合戦の始まりです。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.51》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は先月に続きまして尺八奏者の徳山隆さんです。

−音楽Ⅱ−

前回、思いもかけず中国で発達した弦楽器“二胡”との、上海での戯れ(余興)のジョイントの話で終わった。二胡は中国の擦絃楽器(バイオリンのように楽器を弓でこすって弾く楽器)だ。前回も触れたNHK大河ドラマ風林火山』の終了時、毎回長いソロを奏でていることもあり、お聞き覚えのある方もあろう。

今日、洋楽器を除いて日本の楽器(邦楽器)を含めた世界の民俗楽器中、それなりに繁栄しているのはどんな楽器だろうか。その根拠を、気軽に習える一般向けの教室があちこちにあるか否かとして考えてみると、ウクレレ二胡ケーナあたりになろうか。邦楽器では、和太鼓と津軽三味線か。ウクレレケーナに関しては、演奏のやさしさ、簡便さ、楽器が安価なことも影響していると思われる(高木ブー氏のウクレレも大したのものなのだが・・・)。二胡は、敢えて想像するなら、日本をめざした多くの中国人の中に有能な二胡奏者も複数いて、彼らが伝統に縛られることなく、ポップスなどわかりやすい音楽を用いて楽器の性能を最大限アピールした、というような経緯も関係しているのではないか。

芸能に対する姿勢という観点から言えば、伝統にとらわれず新しいものをどんどん取り入れてゆくという点において、中国人は大阪人に似ている。落語も歌舞伎もそのありようは、江戸と上方では大きく違う。江戸三百年の平和で閉鎖的な社会は、独特の繊細な芸能を育んだが、この枠組みはそっくり邦楽の枠組みとして引き継がれている。和太鼓や津軽三味線は、この枠組みからは“辺境”に位置し、江戸邦楽の歴史と伝統という枠組みからは無縁の存在で、伝統の縛りがない分だけ何でもできる。打楽器という太古以来の身体に直接働きかける力動性、既存の三味線中最大の義太夫三味線をはるかに凌駕するサイズ(猫皮ではなく犬皮)の津軽三味線の迫力が、人気を博した一因でもあろうが・・・。

今日でもブームが続いている津軽三味線も、30年前はほとんど誰にも知られていなかった。当時、フラメンコ・ギターをやっている友人から高橋竹山のモノラル・レコードを聴かされた時の衝撃は、今でも耳に新しい(尤も、なくなった渋谷のライブ・ハウス“ジャンジャン”では、師のライブに行列ができてはいたのだが・・・)。一人の才能が歴史をひっくり返すこともある。長く、本当に長く(それこそ『源氏物語』以来か?)顧みられることのなかった雅楽篳篥という楽器がある。この篳篥を用いて、世に出た異才が引き金になったのか、今日、あちこちの雅楽教室も賑わっているようだ。小学校での雅楽の楽器紹介では、篳篥の音を聞いた途端にしばしば生徒が笑い出したことから、演奏前に教師が「笑わないように」と釘を刺していたという実話を思えば、時代は大きく変わった。

平城京に響いた雅楽の一員としての古代の尺八は、聖武天皇の御物として正倉院と東京博物館にしか残存しない。日韓交流年の2001年、国立劇場での両国雅楽公演で、韓国に残っている古代尺八様の楽器・ピリの響きを初めて聞いた。その音は、か細く、耳を澄まさなければ聞こえなかった。天皇臨席の開演前のロビーで、「岩波さん(旧知の宮内庁楽部の笙師)どうしてるかな」と思って、顔を上げた途端本人が目の前にいた。楽長として、当夜の彼は打楽器を担当していた。


  
・徳山さんのホームページがありますのでご覧下さい。
http://www.01.246.ne.jp/~t-tok/


◆今月の隆眼−古磯隆生

−街路樹−

東京に住んではいるものの以外に行動範囲は狭いようで、先日久し振りに池袋に行きました。住まいから何となく遠く感じられ、池袋には指で数えられる程度にしか行っていませんので、他の盛り場(拠点)と違うところがすぐ目に入ります。先日歩いたところは西部デパートの北東側で街路樹が目に入りました。街の光景が他と違って何か自然な感じです。よく観察すると、街路樹が不規則に植えられています。大概、都心のグリーン計画は人為的で、正しく一定な間隔で一直線上に配置されますが、池袋のこの場所は全く違っていました。以前から生えていたケヤキをそのまま残して歩道を整備したように思われます。これには自然な感覚が残ってとても好感が持てます。このアトランダムに配されているケヤキの中を散歩するのはなかなか面白いもので、このような都心で不思議な感覚にとらわれました。
横浜の県庁近辺もそうですが、都市の中心街はとても綺麗に整備され、植栽もいかにも「計画しました」然とした光景に、‘かみしも'をつけた堅苦しさは否めません。人為の限界を思わせもしますが、同じ人為的にやるのなら小堀遠州の作庭くらい徹する方がいいのではと思われます。
都市空間の中に人は緑を求めます。東京の街路樹はケヤキが主流を占めます。あの伸び伸びとした枝、木立の姿はとても人の気持ちを爽快にしてくれます。すっかり葉を落とした木立の姿はとても稟とした響きを感じさせもします。これから新芽が芽吹き、あの豊かな新緑は都市空間を彩ります。が…行政はあちこちでそのケヤキの枝を無惨にも切り取り、場所によっては幹だけの姿にしてしまっています。凡そケヤキの姿を留めません。少しは我慢と言おうか配慮があっていい筈です。
都会の中の自然とは何だろう?…やはり問いたくなります。



◆今月の山中事情−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

一年半前、店を造るにあたり猫の額ほどの店先の庭を掘り起こされた。それまでそこに生きていた筈の水仙たちはそこら中に放っぽり投げられていた。その庭を整備された後、私は一個ずつ球根を埋めてあげた。
しかし翌年(つまり昨年の春)は栄養不足だったのだろう一つも花を咲かせてくれなかった。ところが今年は大地にしっかり根を張り、栄養を充分に蓄えたのだろうか、土を押し上げぐんぐん芽を出した。蕾をいっぱい持った水仙があちこちに茎を伸ばしている。はち切れんばかりの蕾だ。いつ頃姿を隠したのか忘れたが、その後地中にずっと佇んでいたのだ。何ひとつつぶやくこともせず、この寒空に再び姿を現してくれた。生命の強靱さ、凄さ、しぶとさが伝わってくる。これからお客様を楽しませてくれることでしょう。