★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.50

あっと言う間の2月です。
暖かい冬は結構なのですが、やはり異常ですねー。
先日伊豆沖に早朝の釣りに出掛けましたが、例年ですと極寒のこの時期なのに殆ど寒さを感じませんでした。釣果は極寒?ではありませんでした。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.50》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は 徳山 隆 さんです。

−音楽−

今年の韓国は暖冬だそうだが、それでも日本よりは寒かった。1月最終週は、ソウル・明洞の同じホテルに五日いた。この2年で、ここにトータル20日位は泊まっていることになると思う。いつも十何階かの部屋をあてがわれるので、エレベーターを使うのだが、箱にとじ込められた途端に、音楽が聞えてくる。ホテルのテーマ曲なのだろう、静かで落ち着いたゆったりしたメロディーはそれなりに素敵なのだが、問題は、客であるわれわれにこの曲を聴かない自由がないことだ。日本のBSニュースを見ようとテレビのスイッチを入れる時も、同じ曲が流れてくる。五日も六日も、自分の欲求とは関係なしに同じ音楽を聴かされるのも結構厳しいものがある。

モーツアルトのような優れた耳を持っていたと思われる例外を除いて、われわれが何かの曲を採譜するとき、繰り返しそれこそ何百回でも聞き取れない部分だけを抜き出して集中的に聴く。このように手間隙かけて採取した音楽は、何年か放っておいても、再見したとたんに蘇ってくれる。
ヴァイオリンを中心にスズキ・メソッドという(日本でよりも)外国で評価の高い指導法がある。基本的に譜面というものを用いず、その曲の模範となる名演奏を繰り返し聴くことで、曲を覚えさせる。学習者が幼少の場合は、この方法はきわめて有効である。1970年代のあるとき、私はニューデリーで民俗音楽を習っていた。その時懇意になった現地のヴァイオリン弾きに、スズキ・メソッドのことを聞かれて答えられずに困った。同メソッドの故鈴木鎮一氏は、孤児として辛酸をなめつつ、ヴァイオリンの指導法を完成、スズキ・メソッドとして世界に広めた。鈴木氏の指導法は、その人の長所を徹底して伸ばしてゆくもので、過酷な生い立ちの下に愛に目覚めたという点、ホンモノである。“講談社現代新書”に同氏の自伝があるが、同新書で愛を説くマザー・テレサや、今道氏(東大・哲学)の他書共々、心が洗われる名著といえよう。

さて、インドのヴァイオリン弾きたちは、母国における西洋音楽の不振を嘆き、ナイト・クラブなどでの演奏で糊口をしのぎつつ、休日集まって自らの音楽上の飢えを凌ごうとするかのようにベートーベンのシンフォニーなどを練習していた。車に同乗させてもらって随分遠い練習会場まで連れて行ってもらった記憶がうっすらとある。ヴァイオリンばかりの4、5人での演奏だから、交響曲全体の声部が聞こえてくるわけではないが、それでも紛れもないベートーベンがそこにあった。その音は、ウィーンや、いっとき住んでいたザルツブルクでの有名オーケストラによるベートーベンとは、また違った感動をもたらした。

久しぶりにNHKの大河ドラマを見ているが、音楽がなかなか良い。ここで私がいう音楽は、劇中、台詞のバックに随時挿入される無調音楽のことである。テーマ曲は毎年作られるクラシックの作曲家の路線(手法)通りである。ただし中国の民族楽器の二胡をうまく使っている。昨夏、酷暑の上海で、レセプションの余興で二胡と合奏した。散々ご馳走をいただいて、突然何か吹くよう請われた小生が、「ふるさと」を吹いたら、すでにステージを終えていた、日本でプロ活動をしているという二胡奏者が一緒に弾いてくれたのだ。このときの演奏を、日本から同行し、いつも小生の演奏を聴いている某氏が、「今日の先生の演奏は、イマイチでしたね」という。怪訝に思ってさらに聞いてみると、「ニ胡と尺八が合っていなかった」というのだ。実際は、二胡が途中から入ってメロディを弾き始めたので、私は、ユニゾンでやるのも能がないと思い、とっさにハモるように対旋律をつけて吹いた。訓練されていない耳には、尺八が間違って吹いたと聞えたらしい。(つづく)
  
・話題を提供して下さった徳山さんは尺八奏者です。

今回は二度目の話題提供をしていただきました。
徳山さんのホームページがありますのでご覧下さい。
http://www.01.246.ne.jp/~t-tok/


◆今月の隆眼−古磯隆生

  • 紅白梅図−

先日、念願だった尾形光琳の「紅白梅図屏風」を見るためMOA美術館(熱海)に行きました。毎年この時期にだけしか展示されないのでなかなか行く機会を得なかったのですが、今年は何としても見ようと出掛けました。
光琳のこの絵に特別の興味を抱いたのは、他の日本画にはあまり見られない‘具象性と抽象性'を一つの絵の中で見事に扱った作品だと思っていたからです。印刷物でしか見ていなかったので実物との対面は感動でした。

“堂々としていて、実にしっくり落ち着き、訴えかける力のある凄い絵”

が第一印象です。印刷物からは感じ取れなかったことでした。
まず目に入ってきたのは散在する紅白の梅の花と幹に発生してる苔の緑青でした。これらの色は、渋く控えめに輝く金箔やゆったりした川の押し殺したように沈む黒っぽい藍を背景に踊ってる様でさえありました。
両サイドの苔むした梅の老木を日本画的技法でリアル(具象性)に描き、中央に流れを文様化した(抽象性)雄大な川の流れをいっぱいに配すとても大胆な構図で、その大胆さは北斎に匹敵する程です。タイトルからは紅白梅がテーマかなと思わせますが、見てるうちに、やはり、中央を占める黒く沈んだ雄大な文様の流れが画面を支配してきます。

しばらく見ていると面白いことに気付きました。‘対’の概念です。まず、紅梅図屏風、白梅図屏風が一つの‘対’になっています。色彩的にも紅と白が‘対’で意識されています。構図的にも‘対’になっていて紅梅図を凹の構成と見れば白梅図は凸の構成と見ることが出来ます。それらの背景に神道の陰陽の思想を感じさせもします。その延長上に‘具象性と抽象性'を見て取ることも出来そうです。
‘対’と言おうか‘対立’と言おうか、いずれにしても異なる表現を同じ画面の中でぶつけ合うことが意図されているようです。そして何とも凄いと思わせたのは、具象的に描いた‘梅の老木'を平面的に感じさせ、‘’文様の流れ'にパースペクティブな奥行きを感じさせている。つまり、抽象性に奥行きを与え、具象性に平面性を感じさせるといういわば逆転した手法を敢えて用いているようです。
この絵に隠されている様々な‘対’の手法は、見る者の錯覚をも計算に入れて総合されたスゴイものでした。一時間ほどこの絵に見入っていましたが、どこからか音も聞こえてくるようでした。


◆今月の山中事情−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−山の恵み−

人の身体は酸性よりアルカリ性に保持することが望ましいとよく言われる。ここに住む者として少し喜ばしいことをお客様に言われた。この辺りはセメントの原料の石灰の一大産地で知られる。その石灰質の大地に生える草木を食べることによってアルカリ性の身体になれるとのことである。わざわざカルシウム入りの食べ物やドリンク、薬を飲むことなく、湧き出る水を飲み、山の恵みを料理することによって充分に補ってあまりあるとおっしゃる。
例えを挙げれば、蕗、よもぎ、せり、クレソン、わさびの葉、ぎぼうし、わらび、ぜんまい、こごみ、たらの芽、たんぽぽ、どくだみ、スカンポ、あけびの芽、等々いろいろあるはずだ。これらが自然にミネラルを貯蔵して生えている。それをいただかない手はないと思う。二度目の春は摘み草に精を出すか!!


あっと言う間の2月です。
暖かい冬は結構なのですが、やはり異常ですねー。
先日伊豆沖に早朝の釣りに出掛けましたが、例年ですと極寒のこの時期なのに殆ど寒さを感じませんでした。釣果は極寒?ではありませんでした。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.50》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は 徳山 隆 さんです。

−音楽−

今年の韓国は暖冬だそうだが、それでも日本よりは寒かった。1月最終週は、ソウル・明洞の同じホテルに五日いた。この2年で、ここにトータル20日位は泊まっていることになると思う。いつも十何階かの部屋をあてがわれるので、エレベーターを使うのだが、箱にとじ込められた途端に、音楽が聞えてくる。ホテルのテーマ曲なのだろう、静かで落ち着いたゆったりしたメロディーはそれなりに素敵なのだが、問題は、客であるわれわれにこの曲を聴かない自由がないことだ。日本のBSニュースを見ようとテレビのスイッチを入れる時も、同じ曲が流れてくる。五日も六日も、自分の欲求とは関係なしに同じ音楽を聴かされるのも結構厳しいものがある。

モーツアルトのような優れた耳を持っていたと思われる例外を除いて、われわれが何かの曲を採譜するとき、繰り返しそれこそ何百回でも聞き取れない部分だけを抜き出して集中的に聴く。このように手間隙かけて採取した音楽は、何年か放っておいても、再見したとたんに蘇ってくれる。
ヴァイオリンを中心にスズキ・メソッドという(日本でよりも)外国で評価の高い指導法がある。基本的に譜面というものを用いず、その曲の模範となる名演奏を繰り返し聴くことで、曲を覚えさせる。学習者が幼少の場合は、この方法はきわめて有効である。1970年代のあるとき、私はニューデリーで民俗音楽を習っていた。その時懇意になった現地のヴァイオリン弾きに、スズキ・メソッドのことを聞かれて答えられずに困った。同メソッドの故鈴木鎮一氏は、孤児として辛酸をなめつつ、ヴァイオリンの指導法を完成、スズキ・メソッドとして世界に広めた。鈴木氏の指導法は、その人の長所を徹底して伸ばしてゆくもので、過酷な生い立ちの下に愛に目覚めたという点、ホンモノである。“講談社現代新書”に同氏の自伝があるが、同新書で愛を説くマザー・テレサや、今道氏(東大・哲学)の他書共々、心が洗われる名著といえよう。

さて、インドのヴァイオリン弾きたちは、母国における西洋音楽の不振を嘆き、ナイト・クラブなどでの演奏で糊口をしのぎつつ、休日集まって自らの音楽上の飢えを凌ごうとするかのようにベートーベンのシンフォニーなどを練習していた。車に同乗させてもらって随分遠い練習会場まで連れて行ってもらった記憶がうっすらとある。ヴァイオリンばかりの4、5人での演奏だから、交響曲全体の声部が聞こえてくるわけではないが、それでも紛れもないベートーベンがそこにあった。その音は、ウィーンや、いっとき住んでいたザルツブルクでの有名オーケストラによるベートーベンとは、また違った感動をもたらした。

久しぶりにNHKの大河ドラマを見ているが、音楽がなかなか良い。ここで私がいう音楽は、劇中、台詞のバックに随時挿入される無調音楽のことである。テーマ曲は毎年作られるクラシックの作曲家の路線(手法)通りである。ただし中国の民族楽器の二胡をうまく使っている。昨夏、酷暑の上海で、レセプションの余興で二胡と合奏した。散々ご馳走をいただいて、突然何か吹くよう請われた小生が、「ふるさと」を吹いたら、すでにステージを終えていた、日本でプロ活動をしているという二胡奏者が一緒に弾いてくれたのだ。このときの演奏を、日本から同行し、いつも小生の演奏を聴いている某氏が、「今日の先生の演奏は、イマイチでしたね」という。怪訝に思ってさらに聞いてみると、「ニ胡と尺八が合っていなかった」というのだ。実際は、二胡が途中から入ってメロディを弾き始めたので、私は、ユニゾンでやるのも能がないと思い、とっさにハモるように対旋律をつけて吹いた。訓練されていない耳には、尺八が間違って吹いたと聞えたらしい。(つづく)
  
・話題を提供して下さった徳山さんは尺八奏者です。

今回は二度目の話題提供をしていただきました。
徳山さんのホームページがありますのでご覧下さい。
http://www.01.246.ne.jp/~t-tok/


◆今月の隆眼−古磯隆生

  • 紅白梅図−

先日、念願だった尾形光琳の「紅白梅図屏風」を見るためMOA美術館(熱海)に行きました。毎年この時期にだけしか展示されないのでなかなか行く機会を得なかったのですが、今年は何としても見ようと出掛けました。
光琳のこの絵に特別の興味を抱いたのは、他の日本画にはあまり見られない‘具象性と抽象性'を一つの絵の中で見事に扱った作品だと思っていたからです。印刷物でしか見ていなかったので実物との対面は感動でした。

“堂々としていて、実にしっくり落ち着き、訴えかける力のある凄い絵”

が第一印象です。印刷物からは感じ取れなかったことでした。
まず目に入ってきたのは散在する紅白の梅の花と幹に発生してる苔の緑青でした。これらの色は、渋く控えめに輝く金箔やゆったりした川の押し殺したように沈む黒っぽい藍を背景に踊ってる様でさえありました。
両サイドの苔むした梅の老木を日本画的技法でリアル(具象性)に描き、中央に流れを文様化した(抽象性)雄大な川の流れをいっぱいに配すとても大胆な構図で、その大胆さは北斎に匹敵する程です。タイトルからは紅白梅がテーマかなと思わせますが、見てるうちに、やはり、中央を占める黒く沈んだ雄大な文様の流れが画面を支配してきます。

しばらく見ていると面白いことに気付きました。‘対’の概念です。まず、紅梅図屏風、白梅図屏風が一つの‘対’になっています。色彩的にも紅と白が‘対’で意識されています。構図的にも‘対’になっていて紅梅図を凹の構成と見れば白梅図は凸の構成と見ることが出来ます。それらの背景に神道の陰陽の思想を感じさせもします。その延長上に‘具象性と抽象性'を見て取ることも出来そうです。
‘対’と言おうか‘対立’と言おうか、いずれにしても異なる表現を同じ画面の中でぶつけ合うことが意図されているようです。そして何とも凄いと思わせたのは、具象的に描いた‘梅の老木'を平面的に感じさせ、‘’文様の流れ'にパースペクティブな奥行きを感じさせている。つまり、抽象性に奥行きを与え、具象性に平面性を感じさせるといういわば逆転した手法を敢えて用いているようです。
この絵に隠されている様々な‘対’の手法は、見る者の錯覚をも計算に入れて総合されたスゴイものでした。一時間ほどこの絵に見入っていましたが、どこからか音も聞こえてくるようでした。


◆今月の山中事情−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−山の恵み−

人の身体は酸性よりアルカリ性に保持することが望ましいとよく言われる。ここに住む者として少し喜ばしいことをお客様に言われた。この辺りはセメントの原料の石灰の一大産地で知られる。その石灰質の大地に生える草木を食べることによってアルカリ性の身体になれるとのことである。わざわざカルシウム入りの食べ物やドリンク、薬を飲むことなく、湧き出る水を飲み、山の恵みを料理することによって充分に補ってあまりあるとおっしゃる。
例えを挙げれば、蕗、よもぎ、せり、クレソン、わさびの葉、ぎぼうし、わらび、ぜんまい、こごみ、たらの芽、たんぽぽ、どくだみ、スカンポ、あけびの芽、等々いろいろあるはずだ。これらが自然にミネラルを貯蔵して生えている。それをいただかない手はないと思う。二度目の春は摘み草に精を出すか!!


あっと言う間の2月です。
暖かい冬は結構なのですが、やはり異常ですねー。
先日伊豆沖に早朝の釣りに出掛けましたが、例年ですと極寒のこの時期なのに殆ど寒さを感じませんでした。釣果は極寒?ではありませんでした。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.50》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は 徳山 隆 さんです。

−音楽−

今年の韓国は暖冬だそうだが、それでも日本よりは寒かった。1月最終週は、ソウル・明洞の同じホテルに五日いた。この2年で、ここにトータル20日位は泊まっていることになると思う。いつも十何階かの部屋をあてがわれるので、エレベーターを使うのだが、箱にとじ込められた途端に、音楽が聞えてくる。ホテルのテーマ曲なのだろう、静かで落ち着いたゆったりしたメロディーはそれなりに素敵なのだが、問題は、客であるわれわれにこの曲を聴かない自由がないことだ。日本のBSニュースを見ようとテレビのスイッチを入れる時も、同じ曲が流れてくる。五日も六日も、自分の欲求とは関係なしに同じ音楽を聴かされるのも結構厳しいものがある。

モーツアルトのような優れた耳を持っていたと思われる例外を除いて、われわれが何かの曲を採譜するとき、繰り返しそれこそ何百回でも聞き取れない部分だけを抜き出して集中的に聴く。このように手間隙かけて採取した音楽は、何年か放っておいても、再見したとたんに蘇ってくれる。
ヴァイオリンを中心にスズキ・メソッドという(日本でよりも)外国で評価の高い指導法がある。基本的に譜面というものを用いず、その曲の模範となる名演奏を繰り返し聴くことで、曲を覚えさせる。学習者が幼少の場合は、この方法はきわめて有効である。1970年代のあるとき、私はニューデリーで民俗音楽を習っていた。その時懇意になった現地のヴァイオリン弾きに、スズキ・メソッドのことを聞かれて答えられずに困った。同メソッドの故鈴木鎮一氏は、孤児として辛酸をなめつつ、ヴァイオリンの指導法を完成、スズキ・メソッドとして世界に広めた。鈴木氏の指導法は、その人の長所を徹底して伸ばしてゆくもので、過酷な生い立ちの下に愛に目覚めたという点、ホンモノである。“講談社現代新書”に同氏の自伝があるが、同新書で愛を説くマザー・テレサや、今道氏(東大・哲学)の他書共々、心が洗われる名著といえよう。

さて、インドのヴァイオリン弾きたちは、母国における西洋音楽の不振を嘆き、ナイト・クラブなどでの演奏で糊口をしのぎつつ、休日集まって自らの音楽上の飢えを凌ごうとするかのようにベートーベンのシンフォニーなどを練習していた。車に同乗させてもらって随分遠い練習会場まで連れて行ってもらった記憶がうっすらとある。ヴァイオリンばかりの4、5人での演奏だから、交響曲全体の声部が聞こえてくるわけではないが、それでも紛れもないベートーベンがそこにあった。その音は、ウィーンや、いっとき住んでいたザルツブルクでの有名オーケストラによるベートーベンとは、また違った感動をもたらした。

久しぶりにNHKの大河ドラマを見ているが、音楽がなかなか良い。ここで私がいう音楽は、劇中、台詞のバックに随時挿入される無調音楽のことである。テーマ曲は毎年作られるクラシックの作曲家の路線(手法)通りである。ただし中国の民族楽器の二胡をうまく使っている。昨夏、酷暑の上海で、レセプションの余興で二胡と合奏した。散々ご馳走をいただいて、突然何か吹くよう請われた小生が、「ふるさと」を吹いたら、すでにステージを終えていた、日本でプロ活動をしているという二胡奏者が一緒に弾いてくれたのだ。このときの演奏を、日本から同行し、いつも小生の演奏を聴いている某氏が、「今日の先生の演奏は、イマイチでしたね」という。怪訝に思ってさらに聞いてみると、「ニ胡と尺八が合っていなかった」というのだ。実際は、二胡が途中から入ってメロディを弾き始めたので、私は、ユニゾンでやるのも能がないと思い、とっさにハモるように対旋律をつけて吹いた。訓練されていない耳には、尺八が間違って吹いたと聞えたらしい。(つづく)
  
・話題を提供して下さった徳山さんは尺八奏者です。

今回は二度目の話題提供をしていただきました。
徳山さんのホームページがありますのでご覧下さい。
http://www.01.246.ne.jp/~t-tok/


◆今月の隆眼−古磯隆生

  • 紅白梅図−

先日、念願だった尾形光琳の「紅白梅図屏風」を見るためMOA美術館(熱海)に行きました。毎年この時期にだけしか展示されないのでなかなか行く機会を得なかったのですが、今年は何としても見ようと出掛けました。
光琳のこの絵に特別の興味を抱いたのは、他の日本画にはあまり見られない‘具象性と抽象性'を一つの絵の中で見事に扱った作品だと思っていたからです。印刷物でしか見ていなかったので実物との対面は感動でした。

“堂々としていて、実にしっくり落ち着き、訴えかける力のある凄い絵”

が第一印象です。印刷物からは感じ取れなかったことでした。
まず目に入ってきたのは散在する紅白の梅の花と幹に発生してる苔の緑青でした。これらの色は、渋く控えめに輝く金箔やゆったりした川の押し殺したように沈む黒っぽい藍を背景に踊ってる様でさえありました。
両サイドの苔むした梅の老木を日本画的技法でリアル(具象性)に描き、中央に流れを文様化した(抽象性)雄大な川の流れをいっぱいに配すとても大胆な構図で、その大胆さは北斎に匹敵する程です。タイトルからは紅白梅がテーマかなと思わせますが、見てるうちに、やはり、中央を占める黒く沈んだ雄大な文様の流れが画面を支配してきます。

しばらく見ていると面白いことに気付きました。‘対’の概念です。まず、紅梅図屏風、白梅図屏風が一つの‘対’になっています。色彩的にも紅と白が‘対’で意識されています。構図的にも‘対’になっていて紅梅図を凹の構成と見れば白梅図は凸の構成と見ることが出来ます。それらの背景に神道の陰陽の思想を感じさせもします。その延長上に‘具象性と抽象性'を見て取ることも出来そうです。
‘対’と言おうか‘対立’と言おうか、いずれにしても異なる表現を同じ画面の中でぶつけ合うことが意図されているようです。そして何とも凄いと思わせたのは、具象的に描いた‘梅の老木'を平面的に感じさせ、‘’文様の流れ'にパースペクティブな奥行きを感じさせている。つまり、抽象性に奥行きを与え、具象性に平面性を感じさせるといういわば逆転した手法を敢えて用いているようです。
この絵に隠されている様々な‘対’の手法は、見る者の錯覚をも計算に入れて総合されたスゴイものでした。一時間ほどこの絵に見入っていましたが、どこからか音も聞こえてくるようでした。


◆今月の山中事情−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−山の恵み−

人の身体は酸性よりアルカリ性に保持することが望ましいとよく言われる。ここに住む者として少し喜ばしいことをお客様に言われた。この辺りはセメントの原料の石灰の一大産地で知られる。その石灰質の大地に生える草木を食べることによってアルカリ性の身体になれるとのことである。わざわざカルシウム入りの食べ物やドリンク、薬を飲むことなく、湧き出る水を飲み、山の恵みを料理することによって充分に補ってあまりあるとおっしゃる。
例えを挙げれば、蕗、よもぎ、せり、クレソン、わさびの葉、ぎぼうし、わらび、ぜんまい、こごみ、たらの芽、たんぽぽ、どくだみ、スカンポ、あけびの芽、等々いろいろあるはずだ。これらが自然にミネラルを貯蔵して生えている。それをいただかない手はないと思う。二度目の春は摘み草に精を出すか!!