★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.36

◆今月の風 : 話題は村上逸郎さんのチベット11日間の旅の3回目です。

トイレ:
チベットでは極端な乾燥と強烈な日差しのため、人はみな水のペットボトルを肩身離さず持ち歩く。日に2−3リットルは飲まなければならないとされる。そのためもあって、バスツアー中は60〜90分おきにトイレタイムをとる。しかし、町から町への間にはトイレ設備は皆無である。従って、男性も女性も青空トイレということになる。例えば男性は停車したバスの右側で、女性はバスの左側で、適当な陰場を見つけていうことになる。はじめは懐かしくもちょっと抵抗感があるがそのうち慣れてしまう。少なくとも男性の場合、大自然の大きさの前でチロチロと小用を足したあと、そのまま思わず大自然に見入ってしまうことが多い。
チベット族にはもともとトイレで用を足すという習慣がないのだという。そういえば、賑やかな繁華街の中でも男性は憚ることなくよく立ちションをしているし、朝、子供が家の周りの道端で用足ししているのを何度も見かけた。したがってチベットにあるトイレは基本的には中国人が持ち込んだものと思われるが、これがなかなかの曲者である。一応(高級)ホテル等の部屋のトイレは椅子式で問題はない(といっても時々詰まる)が、ホテルロビーを含む共用トイレはほとんど「和式」で、それはいいとして問題点はまず「キンカクシ」がない、従って前後が分からない。次に隣との仕切りが無い!便器が並んでいるだけ。横に並んでいるうちならまだ想像がつくが、縦に並んでいるところもある。私なりにいろいろ考察した結果、基本的には向きは入り口に向かってしゃがむものらしいということが分かったが、縦に並んでいる場合はどうなのだろう。向かい合わせにしゃがむのか、お尻をつき合わせるのか、どちらかだろう。多分、前者かなと想像している。
名物トイレを二つ紹介。一つは世界遺産ポタラ宮内の広場にあるトイレ。男女用ともただ穴が開いているだけの「キンカクシ」なしの「和式トイレ」が横に並んでいるが、覗くと50m以上はありそうに深い。同行の女性ガイドが「世界一高いトイレです。物を落とさないよう注意してください。」とともに「落ちないよう注意してください」と言っていた。二つ目はラサ郊外の「江沢民トイレ」。北京の江沢民がラサに視察に来た時、ラサから車で1時間位のこの地で尿意を催し、ここらに公衆トイレが必要ということで建てたといういわくつきの有料公衆トイレ。使ってみたが、ただの汚い公衆トイレであった。

シャワー:
チベット族の人は一生に3度しかお風呂(シャワー)に入らないという。生まれた時、結婚の時、死んだ時の3度。それでも「解放」後は1ヶ月に一度、1週間に一度という風になってきたとのこと。

チベットのお寺と仏像:
チベットの仏教は発祥地インドからヒマラヤを越えて直接伝えられた密教である。日本は中国経由で伝えられた仏教で、神仏習合により日本独特なものになっているように、チベットでも土着のヒンズー教との習合でこれまたかなり独特の様相になっている。日本では空海真言宗が代表的密教であるが、これは前密と呼ばれる時代のもので、チベット密教は後密の時代なのだという。驚かされるのは仏像の多さ(大きい寺院ばかり訪れたせいもあるが)。その大きさとその色彩のあざやかさに圧倒される。寺院も仏像も金をふんだんに使い(チベットは大量の金産出国とのこと)金色に輝いている。1000年前後経つというのに昨日塗ったかのような色彩。一つの寺院に釈迦や観音菩薩弥勒菩薩が何十体もある不可解さ。そして、仏像に握らされた現金紙幣の数々。堂内に立ち込めるヤクから採ったバターの灯心の強烈な臭い(貧しい人はお賽銭代わりに灯明用のバターを捧げて巡礼する。)日本でイメージするおごそかで敬虔な信心というより、まさに人間の生をかけて仏にすがりつくというイメージに近い。敬虔というより信者の生死(と再生)をかけた生々しさがある。艶かしい女性の仏もあれば、男女が交合した歓喜仏もある。お寺の僧侶はほとんどがチベット族とのこと。それでも僧侶の社会的地位は高く、生活は一応安定し、教育も受けられるので今でもチベット族では男の子は条件が揃えば僧侶にしたがるという。
ただ、僧院内での読経の修行風景を見たが、その風景を見る限り暗く陰鬱でこの中で何年、何十年も過ごすのはやはり「現世否定」の世界ではないかと感じた。「解放」により中国による教育は進んでいるが、まだ多くのチベット族の信者の人々は文字も読めないとのこと。



◆今月の隆眼−古磯隆生

『仰天…構造計算書偽装』

なんとも信じられないことが起きてしまいました。構造計算書の偽装問題は底知れぬ拡がりを見せ始めています。一人の建築士の魂を売る行為の背景にあるものは何か?そこにはこの国の建築、社会の様々な断面を露呈させることになりました。当初考えられないことが起きたと思えたこの問題も少し事態を冷静に見てみますと、あながち考えられないことでもないのではと思える状況が垣間見えます。今後折に触れてこの問題を扱うことになりそうです。
ことの経過は新聞、テレビで様々に報じられていますので少し角度を変えてこの問題を考えてみたいと思います。

その前に建築の設計体制を説明します。建築の設計は計画(意匠)担当、構造担当、設備担当のそれぞれ専門の三者で行います。設備は更に電気関係専門と給排水・空調などの設備専門に分かれます。建物は計画(意匠)担当者が全体の計画案を作り、それに基づいて構造、設備の担当者がそれぞれの専門の立場からその計画案を検討します。それら全体を調整し、統合・統括するのは計画(意匠)担当者で、通常、建築家と呼ばれてるのはこの立場の人です。三者はそれぞれ独立した組織(個別の設計事務所)である場合と大手事務所の様に一体の組織になってる(部所で分かれる)場合に分かれます。
設計業務は建主が発注し、多くの場合は計画(意匠)事務所が元請けになり、構造、設備のそれぞれの事務所に発注(外注)しますので、元請け−下請けの関係になります。工事も建主が建設業者に発注し、設計事務所はその設計監理として加わります。この限りにおいては建主、設計者、施工者は本来、三権分立の関係にあります(ジェネコンは設計と施工が同一組織になります)。
今回の問題は建築士資格、確認申請制度、検査機関のあり方、企業間の癒着、建主と持主の二つの主、保証、補償、自立、自己責任、等々様々な問題を露呈させました。

『 粗製乱造・使い捨て・あんちょこの風潮に通底するモラルの低下 』

そもそも一級建築士という資格にどれ程の意味があるか疑問である。即ち、この資格は建築の質を高める保証を何等していない…とのスタンスで考えてみたいと思います。
一級建築士の資格に意匠、構造、設備設計の区別はありません。つまり、どの分野を専門にするかはその人個人の判断によります。想像ですが、今回の建築士は元々構造設計の専門家としてトレーニングしてきていないのではと思われます。なぜなら…建築の歴史を背負っているという意識が感じられないからです。多分、構造計算書のソフトが操作出来ればそれなりの計算が可能になり、総体としての建築を見つめるのではなく、目前の構造計算にのみ目を奪われていたのではないか…と。
細分化され総体の認識がしにくくなった(放棄した)社会がその背景に存在し、時間をかけて育てる事を厭い、促成栽培を容認する風潮。
更に問題は続きます…。



◆今月の味覚−榎本久(羽前改め宇ぜん亭主)

「料理もさることながら地方にはその土地に根ざした様々な事柄があるようで、都会とはひと味違ういろいろなことをつれづれなるままに書いてみようと思います。」ということで様々な話題が提供されるようです。

山中通信1
大黒しめじなる木の子を馴染みのお客様から頂いた。「名は体を表す」の通りあの大黒様が私の手のひらにいるような褐色の傘をした木の子です。ずんぐりむっくりした形で、大きさは4〜5センチでした。おそらくもっと大きくして立派なものもあるはずと私は思っています。
そのお客さんは躊躇なく「炊き込みご飯にしたらおいしいよ」と仰ったので早速作った。香りはあまり無かったが珍しいのでその日のお客様に食べていただいた。バター炒めをしてみたがエレンギや香りの無い松茸の食感であった。それにしてもありがたい名の木の子です。えびす木の子と言うのがあったら「対」で欲しかった。その名の木の子があるのか後で聞いてみよう。