★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.28

◆今月の風 : 話題の提供は浅井克男さんです。

『この道はいつか来た道?』

 「学習指導とは,これまで,教授とか授業とかいって来たのと同じ意味のことばである。このことばを聞いて,その意味をごく常識的に考えると,知識や技能を教師が児童や青年に伝えることだと解するかも知れない。しかし,教育の目標としていることがどんなことであるかを考えてみれば,ただ知識や技能を伝えて,それを児童や青年のうちに積み重ねさえすればよいのだとはいえない。学習の指導は,もちろん,それによって人類が過去幾千年かの努力で作りあげて来た知識や技能を,わからせること一つの課題であるにしても,それだけでその目的を達したとはいわれない。児童や青年は,現在ならびに将来の生活に起る,いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が,またここで養われなくてはならないのである。それでなければ,教育の目標は達せられたとはいわれない。」
 これは「昭和22年度学習指導要領 一般編 (試案)」の第四章の「一 学習指導は何を目ざすか」の初めに書かれている部分である。さらにその先には「教師が独りよがりにしゃべりたてればそれでよろしいと考えたり,教師が教えさえすればそれが指導だと考えるような,教師中心の考え方は,この際すっかり捨ててしまわなければなるまい」といった記述が見られ、「ほんとうの学習は,すらすら学ぶことのできるように,こしらえあげた事を記憶するようなことからは生まれて来ない。児童や青年は,まず,自分でみずからの目的をもって,そのやり口を計画し,それによって学習をみずからの力で進め,更に,その努力の結果を自分で反省してみるような,実際の経験を持たなくてはならない。だから,ほんとうの知識,ほんとうの技能は,児童や青年が自分でたてた目的から出た要求を満足させようとする活動からでなければ,できて来ないということを知って,そこから指導法を工夫しなければならないのである」とも書かれている。
 さて、今何かと批判の的になっている現行の学習指導要領であるが、これが誕生した際に改訂の基本方針なるものが発表されており、その一節には「これからの学校教育においては,多くの知識を教え込むことになりがちであった教育の基調を転換し,生徒に自ら学び自ら考える力を育成することを重視した教育を行うことが重要である」とある。人間でいえば60年で還暦を迎えるとはいえ、学校教育の基本的な方針が60年近く前と同じようなものに戻ったのである。
 また、ゆとり教育の象徴のようにされて、一部から批判を受けている総合的な学習の指導のねらいが指導要領では「(1)自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探求活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の在り方生き方を考えることができるようにすること。」とある。昭和22年度学習指導要領(試案)の考え方と極めて近いものが見て取れる。同時にこれだけ見ても総合的な学習とゆとり教育とを直接的に結びつける見方には無理があるといえる。
 学力低下を憂える声がゆとり教育批判といった形をとり、現行の学習指導要領に揺さぶりをかけ、昨年末発表された二つの国際的学力調査の結果にうろたえたかのような文部科学相発言もあって国は新たな施策に動こうとしている。しかしそれがたくさんの知識を注入すればそれでよしとするような方向に進むとすれば、そしてゆとりが悪であるという立場を推し進めようとするのであれば大きな問題である。学力調査にしても国の順位がどうこうというよりもその内実をしっかり見据えて調査結果を今後のわが国の教育に生かせるものとしてとらえるべきものであろう。また、ゆとりを議論するにしても教育内容の削減のしかたやその方向を問題にするなら話はわかるが、とかくゆとり即悪といった方に流れ勝ちである。当然のことながら国の文教政策はその時代を反映したものとなる。昭和22年の学習指導要領(試案)はまさに戦後の新しい国の出発を反映したものであっただろうし、それがそのままの方向で進まなかったのも急激な経済復興や国際的な動きの中でのわが国の立場の反映でもあったろう。そして今巡り巡って戦後すぐと同じような方針が出されたところにも時代の反映があったのである。さらにこの方針がはやばやと変わるとなればそれはどういう力の反映なのだろう。



◆今月の隆眼−古磯隆生

『修行』
3月22日、建築界の巨匠・丹下健三が亡くなりました。戦後日本の建築界を背負い、日本の建築を一挙に国際レベルに引き上げ、‘昭和という時代を形に表した’と言われた世界的な建築家もしかし、混迷を来してきた時代の変化の中では徐々にその構想力を求められなくなったようにさえ思えます。
1970年の大阪万博以降、「新しいコンセプトを打ち出すには10年以上かかるものです。皆さん焦らずやりましょう」とスタッフに語っていたものの、その万博のお祭り広場以降世界をリードするコンセプトや作品は出現しなかったように思います。いずれ来るべきこの訃報は建築界に静かなどよめきをもって受けとめられた様に感じましたが、師と仰いだフランスのル・コルビュジェの死が世界に衝撃を与えた時とは異なるものでした。3月25日、自らが設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂に於いて告別式が厳かに行われました。演奏されたバッハ無伴奏チェロソナタ二番の音色が、厳しかった姿勢とは対照的に殊更柔らかく響いていました。

丹下事務所での厳しかった修行の思い出話を少し紹介します。
 事務所に入って間もない頃、イタリアのホテルの設計をしている時のことです。いつもの通り製図板に向かっていましたが、そこへ丹下先生(日常的に先生と呼んでいました)が来られ、ちらっとわたしのスケッチを覗かれました。と、「私はこんなホテルには行きたくないですね」…。その一言だけで、そのまま部屋を出て行かれました。大学を卒業して間もない頃でしたから力量もなく当然と言えば当然なのですが、当時相当落ち込んだ思い出が残っています。スタッフ同士競争相手ですから先輩と雖もこんな時に慰めの言葉をかけてくれるようなことはありませんでした。
 プロジェクトの締切間際でのどんでん返しは頻繁でした。当時、3〜4ヶ月毎にクライアントへのプレゼンテーションが行われていましたが、このことは3〜4ヶ月毎にひと月程度の半徹夜状態に入ることと同義語でした。いわんや、締切間際のどんでん返しは数日間の完徹(一睡もしない完全徹夜)を意味しますから締切1週間前あたりは戦々恐々でした。プロジェクトは5人程度のチームで担当しますが、いつも忙しい先生とは事務所でゆっくり設計の打ち合わせの機会が持てません。締切が近づくとやっと打ち合わせが持たれますが、それ迄はこの方向でまとめればいいだろうとチーフ判断のもとに段取りを立て(徹夜が避けらるべきスケジュールで)進めていきます。締切2週間位前になって先生のチェックになりますが、そのとき「もう少しやってみましょうか」との言葉が発せられると大変です。それは練り直しを意味し、戦闘開始です。間際になってやっと先生のスケッチが出て来るわけですが、スケッチが出るということはそれまで進めてきたスタディーが気に入らないということが多く、それからがてんやわんやの始まりです。ぎりぎりのスケジュールに組み直し、スタディー時間を捻出して検討し直しです。ギリギリまで納得できる案に組み上げる姿勢を身に染み込まされる厳しさは今思い出してもゾクゾク、クラクラする経験でした。



◆今月の味覚−榎本久(羽前亭主)

富ヶ谷の店を閉じ、目下次なる展開を模索中の榎本氏からお話しをいただきました。今回と次回の2回に分けて掲載いたします。

「桜のこと」

殊の外寒かったこの冬、春が二の足を踏んでいた。例年ならば三月末日頃は桜が満開で、入学式の頃には散り出すか終わることが普通だが今年はそのお陰でまだまだ楽しめそうだ。失職中の私にとってブラブラした生活を余儀なくされているが、そのこともあってよく歩くようになった。車に乗って出かけることがかえって億劫になっている。なぜなら無収入の身、節約を心がけなければならないからである。だが歩くことによっていろいろ得なこともあることに気付いた。先ず、様々のものをじっくり、ゆっくり見ることが出来る。こんな所にこんな露地があり、こんな風景があるのかと驚かされることである。

わが家から新宿駅までは徒歩で三十分だが、西口公園を横切って都庁の建物に抜ける道や橋を渡って行くコースがいつものことになった。巨大な構造物が何となく人を圧して建っている新宿西口周辺だが、そこにオアシスのごとく西口公園がある。ついこの間まで、ケヤキや桜などの大きな落葉樹は空中に針金細工のように枝を広げているだけだったが、今日、そこを横切ろうとして見た光景はようやく桜もほころび、ケヤキも薄黄緑の絵の具をその枝に散りばめたように若い葉が顔を出し始めていた。例年ならどさっと真っ白の大きな花弁をすでに落としているはずのモクレンが、季節はずれの白いクリスマスツリーのように花を残し、陽の落ちかけた公園でやたら目立っていた。足早にそれらを一瞥しながら、用の向きはお客様だった方が赤坂に出店する店づくりのことで相談にのって欲しいとの依頼があり、暇な身の私であったので出かけた次第だ。

 この街を歩くのは数十年振りだ。私にとってこの町は特別の町だった。青春の五年間はすべてこの町に集約されていた。私の今までの仕事、すなわち料理人のスタートを切った町だったのである。しかし今日この町に降り立ち、その貌や姿は私の知っている赤坂ではもはやなかった。あらゆる店が軒を並べ、同業者がしのぎを削るすさまじい「街」になっていた。大きな資本で店造りをしている処、間口半間にも満たない店が交互にびっしりと連なっている。日本を代表する大歓楽街の一つに名を連ねる「街」がそこにあった。

次回に続く…