★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.18

◆今月の風 : 話題の提供は徳山隆さんです。

−音楽は至福の時をもたらす−

 一体、世界全体に平和をもたらすような力は(が)、音楽にあるのか、ないのか。これだけ科学技術が進歩しても、人間のエゴはなくならず、日本も、世界も、地球も、今、大きくゆがみ、ひずみ、あえいでいる。平和主義の日本国憲法を世界に問い、広めることなく、結局わが国は交戦権を肯定する普通の国家に堕してゆくのだろうか。

 さて、私が聴いた最高の音楽は、30年前、夏期ドイツ語学校で滞在していたザルツブルグでのウイーン・フィルのモーツアルト交響曲25番)。有名な40番のシンフォニーとは別のもう一つの短調。映画『アマデウス』でも効果的に使われていたのでご存じの方もあろう。この時の指揮は、今は亡き(海水浴で水死した)イシュトバン・ケルテス。一糸乱れぬその演奏(特に弦楽器群)は、限りなく美しく、「人間はここまで氣を合わせることができるのか」と、私を感嘆、感動させた。
 家内も通い、今夏は娘がバイオリンの講習に参加する音大(モーツアルテウム)の小さな講堂で、私が確かに目にした人間の技の巧みの最高峰の一つは、今でも耳に刻まれている。私の目の前には巨大な柱があり、よって学割で500円の席だった。この「柱付き・500円席」をアメリカから購入していたもう一人、マサチューセッツ工科大学の学生ヤノビッチは、黒い背広にピンクのシャツとネクタイに金髪の髭。当方はジーパンにTシャツで超長髪。彼とは、その後、小さなザルツブルグの界隈を、何度か飲み歩いた。
 この夏は、小沢征爾バルトークを振ったが、やはり群を抜いていた。踊るような仕草はいつもの通り。満座の喝采を浴び、私は同じ日本人であることが誇らしいような気持ちを抱いたことを覚えている。
 ウイーンの国立歌劇場のオペラは、学割+後進国割引(当時)で、天井桟敷の席は、何と17円。開始と同時に一階まで駆け下りて(ここらの席は数千円)立ち見。座ると看守のおじいさんにみんなで叱られた(「みんな」といっても、いつも、アメリカ人を中心とする白人+アジア人私ひとりだったが)。

 同じ夏、ウイーンでは、日本の武道館のような巨大な会場で、ジャズの夕べがあり、トランペットのデイジー・ガレスビー、ベースのチャーリー・ミンガス、ピアノのセロニアス・モンクなど錚々たる連中が来た。日本のサンケイ・ホールでも、ウイーンのオペラ・ハウスと同じ手を使って、一番安いチケットで、良い席にずるして座っていた(ただし、この手が使えたのはサンケイ・ホールだけ。他の会場は監視の目が行き届く構造でできなかった)。ここで、いつも最高のジャズやゴスペルに浸った。
 私は長い間、ジャズ・ミュージシャンになろうと思っていたので、色んな伝手を頼って楽屋に出入りしたりしていた。シャープス&フラッツのピアニスト、小川俊彦さん(作曲もやり、中野在住ということもあって、今は、世界有数のクラシックのピアノメーカー、ベーゼンドルファーを使った活動もしているようだ)やナベサダさんの楽屋を急襲したりもしていた。山下洋輔も随分聴いた。

 私は、ビートルズの日本公演も聴いている。当時もビートルズは凄い人気だったので、チケットはハガキの抽選で当たった人のみが買える仕組みだった。どういうわけか、さして仲良しでもなかったブラスバンドの同級生が、当たったハガキを(頼みもしないのに)あっさり譲ってくれたのだ。私は、なぜ応募しなかったのかというと、自分もミュージシャンになるつもりでいたので、彼らをライバルとみなし、敢えてハガキでの抽選(に応募する)という“屈辱”を潔しよしとしなかったような心持ちだったように記憶する。

 ここ10年位、私がずっとやりたい音楽は、ご詠歌や和讃の類か。雅楽催馬楽(さいばら)といった、日本の古代や中世の声楽だ。深川(宮部みゆきの時代小説位にしかこの地名は出てこず、正確には「門前仲町」か)の閻魔堂でやっているのは知っているのだが、参加者は、みな篤信厚き老婆ばかりだという。

 音楽(和語では、おんぎょく/音曲)には、目に見えなくとも確かに存在するエネルギーである「氣」を上げるものと、鎮めるものの二種がある。氣を上げる代表のロックやジャズの野外コンサートは、失われた共同体への強烈なノスタルジーたる今風「盆踊り」か。孔子プラトンは、魂鎮めのための音楽を、同時に人格陶冶の方法として重用した。

 私が、30年以上にわたって研究してきた(絶滅から救い、集大成したと自負している)臨済禅の系統である普化尺八は、この魂を鎮める典型的な音楽だ。時にそれは、禅瞑想そのものだといっても良い。

(以下、5月30日に國學院大學の会でした話を敷衍)

 今や、日本人が日本の文化の諸相が分からなくなってしまっているが音楽も事情は全く同じ。本メールを読んでいただいた方々には、せめて真相の一端なりともわかちあいたい。「演歌は日本の心だ」という時の演歌とは、陰旋法・都節音階(洋楽的には、短調)を指すのだろうが、実は、日本の音楽には長い間短調短調たらしめる半音というものが存在しなかった。日本の歴史の最初からの8割には、半音は使われていないのだ。よって、演歌は日本(人)の心だ、との云いは、「日本史最後の数百年」と但し書きを付けた場合のみ機能する。
 オクターブを基本とする、また半音を含めての12音から構成される西洋クラシック音楽に比べて、五音音階を基本とするアジアや日本の音楽は、より幼稚、ないし原始的なのだろうか。この答は、尺八という楽器の変遷に見いだすことができる(というのが私の持論
だ)。

 

◆今月の隆眼−古磯隆生

−失われつつあるもの−

 3月に提供された話題「絶滅製品たち」の関連で建築について考えますと、絶滅品ではありませんが<失われつつあるもの>として極めて残念と思われるのは、日本の木造建築を支えてきた伝来の腕の“確かな”職人が減ってることでしょう。例えばあの漆喰を見事に仕上げられる左官職人がそうです。数年前、山形の或る古い蔵を見に行ったことがありました。その可塑性を生かした細かい丁寧な細工を目の当たりにし、職人技にひたすら感心しました。建物の壁材として質の高いその漆喰は現代住宅から段々遠のいてきているのが残念です。一方で、先日テレビで岩国の錦帯橋の架け替えを放送していましたが、古くなった木造の太鼓橋を架け替える作業を通して、先輩と後輩職人の対話、昔の職人と現代の職人との無言の対話がなされる様を見ました。“わざ”は細々ではあるかも知れないが生き継がれてい
るとの印象を深く受けました。


 こんな折り、「金比羅大芝居・金丸座の平成の修理」の話題を頂きました。
話題提供は湧田加代子さん・女医さんです。


−金毘羅大芝居・金丸座のこと−

2004年5月14日だったか? 私は、夜のNHK番組”金毘羅大芝居・金丸座の平成の修理”の放映を興味深く観ました。以下はインターネットで調べた放送内容です。
 
NHK高松放送局
 現存する最古の芝居小屋、香川県琴平町旧金毘羅大芝居・金丸座。ここでは、20年前から毎年、当時の趣そのままに歌舞伎の公演が行われて人気を集めています。そんな金丸座で、昨年、江戸時代の大がかりな舞台装置の痕跡が見つかりました。木製宙乗り装置「かけすじ」と、客席に紙吹雪を撒くために客席上一面に広がる竹で組んだ天井「ブドウ棚」です。これまで浮世絵等からその存在が推測されていたものの、実際の装置が見つからないため「幻の舞台装置」と呼ばれていました。今回の発見を機に、史上初めて復元されることになりました。生まれ変わった金丸座に立つのは、20年前の初演を飾った中村吉右衛門さんです。還暦を迎え、役者、そして演出家として円熟期の吉右衛門が今回挑むのは、20年前
にも演じた「再会桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」で、今回は新たに手を加えて披露します。

 実は私の義父(主人の父)は、金丸座の昭和の大修理で工事主任としてその復元にかかわりました。修理工事報告書の編集も重要な仕事だったでしょうが、我が家に置いてある報告書を見直してみますと(内容の詳細は素人には理解できませんので、ぱらぱらとめくったというのが正直なところですが)工事の大変さが文面から伝わってきます。復元はオリジナルに忠実にということですから復元工事は本当に大変だったとおもいます。工法、材料はもちろんのこと時代考証も分からないことが多く、よく東京まで調査に出かけたり、いろいろな方の知識を得たりしたようなことを、時折話していました。ぱらぱらとめくった報告書には、今回発見された「かけすじ」と「ブドウ棚」のことは記載されていないように思います。義父は数年前に他界しましたので、今回の発見と工事の状況をあの世からどのような思いで見つめていたことやらと番組を観ながら気になってしまいました。どこまでもオリジナルに拘る義父のことですから喜んでいるでしょうか。自分が発見できなかったことをちょっと残念にも思っているかもしれません。何はともあれ、番組を観ながら、このような復元・修復工事の意義を感じつつ義父の仕事への姿勢に一層尊敬の念を強くしました。
私は金毘羅大芝居はまだ観劇したことがありません。主人と一緒に、是非とも観に行きたいと話しています。

琴平町のホームページから>
 金毘羅大芝居の復元
天保6年(1835年)に建てられた金毘羅大芝居は、現存する芝居小屋としては日本最古のものである。建設以前は、その都度仮小屋建てて芝居を行っていたが、費用がかかるので、芝居の常小屋と富くじ(宝くじ)の開札場(抽選会場)を兼ね、当時の大阪の大西芝居を模して千両で建設させたのが金毘羅大芝居である。 (中略) 娯楽の少ない当時、3月、6月、10月と年3回、市が開かれ、芝居、相撲、操り人形などの興行が多くの人を楽しませた。娯楽のひとつとして、金毘羅大芝居で芝居見物は最たるものであった。 (中略)当時、金毘羅大芝居は芝居小屋の規模としては、江戸、大坂、京都の大都市にある小屋に匹敵するものであり、東西の名優たちは、こぞって四国にある金毘羅大芝居の檜舞台を踏んだという。 (中略) その後、時代は移り変わり、金毘羅大芝居は映画館として転身した。そして映画もテレビの普及に押され、やがて廃館となり、長い間荒廃していたのに気付かなかった。建物の傷みは厳しく、瓦は落ち、壁は崩れ、落下寸前のところまできていた。しかし
ながら、建設後、約160年の風雪に耐え、火災に遭うこともなく今日まで生き残ってきたことは奇跡としか言いようがない。
日本最古のこの芝居小屋を後世に残すべきだと、昭和30年頃より、郷土史家など金毘羅大芝居を愛してやまない人々の熱心な復元運動が始まり、昭和45年6月17日、芝居小屋として初めて国の重要文化財に指定されたのを契機として、復元の道を歩んでいく。昭和47年から約4年間の工事期間と2億数千万の工事費をかけて、昭和51年4月27日、天保の姿をそのまま見事に現在地に移築復元されたのである。

 私は建築・芝居の知識に乏しいので、大方の文章が抜粋になってしまいました。

湧田 加代子



◆今月の味覚−榎本久(羽前)

「ゴーヤ」

沖縄料理には欠くことの出来ない食材「ゴーヤ」。最近は当たり前に見かける野菜になりました。鹿児島県や宮崎県でも特産として出荷しています。人気になったのはやはり健康野菜のイメージが強いからでしょう。また、沖縄は長寿県ゆえ沖縄料理が注目をあびたからでもありましょう。

 さて、私が「ゴーヤ」を使用する料理は、沖縄料理の定番「ゴーヤチャンプルー」の様にかなり栄養価のあるものではなく、いたってシンプルな<おつまみ>です。あまりにシンプルですので驚かないでください。
 先ず、普通に「ゴーヤ」を切り、中の種の入った袋を取り除き、2ミリ位の厚さに切って塩をあて熱湯をさっとくぐらせ、出来れば扇風機で熱をとっていただきます。水に入れて冷やすと水っぽくなるのでなるべく風で熱をとっていただきます。冷えたらおかかを混ぜたり、しらすを混ぜたり、イカの細切りを混ぜたり、好きなものを混ぜてみて下さい。好みで唐辛子をふってもよいでしょう。醤油で召し上がって下さい。

 もう一品は「ゴーヤ」を生のままなるべく薄く切り、オニオンスライスと混ぜて胡麻をふり、酢醤油で召し上がって下さい。新タマネギはあまり水にさらさないで下さい。切ることを面倒と思わない方、簡単です。夏の涼味として、ちょっとビターな感じの一品です。「ゴーヤシンプル」でした。