★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.10

◆今月の風 : 話題の提供は矢島功さんです。
 「建築家への挑戦的な文章です」と前置きされた話題です。

今夏の首都圏の電力供給の問題は、日本の経済活動すら左右しかねない深刻な事態に立ち至ってしまうのではと言われたのが僅か2ヶ月程前であった事はご承知の通りであります。幸か不幸か今夏は(特に首都圏では)冷夏となり電力消費も少なく、予想される様なパニックが起こらずに済んだ事は良かったと想いますし、これも自然の力は人知を超えた所であると改めて畏敬の念を持たざるを得ません。

そもそもこの問題の根本は東京電力原発データ隠しに始まった企業モラルの点にある事は論を待ちませんが、一つの視点を変えた時に今日の日本、特に大都市といわれるビルが乱立するコンクリートジャングルの光(照明)の洪水はどうでありましょうか?はたしてあそこまでビル、店舗、住宅を含めて光りで輝かせる必要性が有るのでしょうか?

最近都心で再開発されるビルを見るにつけ、これを設計した人は限られた資源の中でのエネルギーというものにどれ程の意識をお持ちになって居られるのか疑念を抱かざるを得ません。これでもかという程の照明、空調設備をして、これが「ビルのデザインだ」「ビルの機能だ」と云われても資源の枯渇という点から見ればあまりにも無駄と云わざるを得ないと想います。勿論それに必要な最低限度の完全性、利便性を持つことは当然でありますが、今の照明設備から1/10程度を削減するだけで恐らく首都圏だけでも今の電力の10〜15%程度を減らす事は可能かと思います。

一人の建築士が自らの設計する建物について照明を5〜10%カットするデザインを考えたなら大変な大きな数字になってくるのではないかと考える次第です。ただここで建築家の方々の立場を多少擁護するとすれば、施主対建築家の関係が存在することもあると思います。施主からいろいろと注文を出されるとどうしてもそれに従わざるを得ない点が有ると思いますが、そこからは施主対建築家ではなく地球船の同乗者としてエネルギー問題を討論し解決をして頂かなければならない側面もあると思います。

古来より日本文化の中には明と暗という美学があったと思います。未だ電気が発明される以前は灯心の光、ローソクの光、ランプの光、ガス燈の光等々心癒される光というものが存在しておりました。あの源氏物語の風景は光と影、僅かに揺れる灯心の光の中で成り立ったものだと思います。もし仮にあの風景を現在の蛍光灯の下に置き換えたら恐らく文学として成り立ち得ないのではないでしょうか。又、古来より神事などを見た時、その殆どは暗と僅かな松明にて執り行われる形式が多く、ご神体を照明で輝々と照らし出すというようなことは行われておりません。それが参列している者全てに神秘性をより印象付ける効果と厳粛さを導き出しているものと思います。そこまで古く遡らなくても、昭和初期から戦後にかけての都市基盤が未だ十分整備されていない頃は、暗い夜道に家の明かりがポッと浮き立つ様な今考えれば不便さはあったものの心の和む一瞬が有った様に感じます。

それが今から僅か40年程前からの高度経済成長につれ生活環境が激変、全ての物が電力に頼る様な風になり、それが無いと生きて行くことすら出来ないという様な錯覚に囚われオール電化生活が始まり、瞬く間に日本全土を覆う様になってしまいました。今から時代の逆戻りは出来ないかも知れませんがせめて満月の夜にでも部屋の明かりを消して、花でも生けて、香でもたいてローソクの光でその月明かりを楽しむという日が有っても良いのではないかと思ったりします。

この様な日本の四季に合った情緒と“ゆとり”の生活は省資源の現在なればこそ見直さなければならない問題かと思いますが…。



◆今月の隆眼−古磯隆生

谷崎的美学を背景に語られる“今月の風”の矢島さんの‘挑戦’状は、以前「光・明・陰・闇」と題して < 明るさにも強弱、明暗(陰)のリズムがあってこそ、住空間に抑揚、奥行きが生まれてくるもの > と語った私の気持ちを大いに揺さぶります。
 オフィスに限らず、住宅に至るまで、昔に比べて建築の照明が過剰傾向にあるのは否めません。ひたすら明るければいいというわけでもないでしょうが明るさを渇望する風潮は矢島さんご指摘の通りです。
ただ、ニーズに応じて設備しておくこととそれをどの様な使い方にするのかは問題として分けておく必要があると思います。環境破壊、エネルギー問題が他人事ではない現代においてわれわれの生き方の中で何が〈過剰〉であるかを峻別していかなければならなくなった状況は‘地球船の同乗者’として当然のことです。生活環境全般にわたって電力消費が大幅に延びてきている現代の生活スタイルのあり方に根本的な問題が潜んでいます。コンピューターに支えられた現代生活環境の一方で素朴に自身の肉体を原点とする発想が求められている状況は多様化した社会にあって自己回復の糸を少しでもたぐり寄せようとの願いかも知れません。その意味で素朴な灯りを様々に楽しむ生活を取り戻す余裕はとても必要なことのように思えます。、
この読者の中にも建築関係者が何人かいらっしゃいます。それぞれの立場で矢島さんご指摘の問題に向かい合うことになると思います。                


◆様々情報

前回の「まちの中の四季・その3…いびつになった欅」にお便りをいただきました。その中の一節を紹介します。

豊中市コンドミニアムはおよそ、20年前に建てられ、13棟もある広い敷地のまりに欅が植えられ、20年もたつと、大木になり、素晴らしい緑のトンネルをつくっています。豊中百選に選ばれています。その並木の中は、この残暑にもかかわらず、ひんやりと、涼しく、
その、欅に接するだけに、大勢の人達が来訪されているようです。新緑の美しさと、紅葉のすばらしさと、2度も楽しみをあたえてくれる欅、いいですね。」