★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.6

◆今月の風 : 話題の提供は野村好彦さんです。

大徳寺聚光院の茶室への廊下でのことです。
わが子と同じ歳とおぼしき女子大生ボランティアの観光ガイドに向かって、ぼくは以前から疑問に思っていたことをしゃべっていました。<かつて大鋸(おが)というものがなく、その大鋸によって製材された板というものがなかった時代−概ね14世紀末まで−には、庶民の家には板敷きの部屋などなく、もちろん畳を敷き詰めた部屋もなかった。誤解のないように付言すると、大鋸がなかった時代には、板はまず丸太に楔を打ち込んで縦に割かれてから、板の両面をヤリガンナで削っていくというように作られた。だから厚い板しか作れなかったのである。庶民が簡単に手に入れられるような薄い板材はなかったが故に民家に板の間などはなく、床は土間であったと考えられるが、そのようなところで、どのようにして人々は眠っていたのか。一体、寝室はどのようなものであったと考えられるか。残念ながらそのような遺構が発見されたことはない。越前の一乗谷が発掘されているが、あれはすでに16世紀のもので一般民家にはすでに板敷きの部屋が見られる。想像すると、土間にそのまま眠ったといっても、おそらく色んな工夫がされていて、どうやら寝室の土間だけは藁や籾殻を鋤き込み、そのうえに筵を何枚か重ねて敷いていただろう、と考えられるが具体的な証拠はなく、………>興味のない人には面白くもないであろう、そういう薀蓄を続けていると
その女子大生が、口を開きました。「それならば、<さむしろにころもかたしき>です。『さ』は接頭語。『粗末な』ほどの意味。自分の着ていた着物を片方だけに敷いて寝ていたのです。<狭筵に衣片敷き>です」古い言葉の中に、それは残されていました。百人一首にさえ入っていたにもかかわらず、言葉の真の意味にぼくは今まで気が付かなかったというわけなのです。そして若い世代から教わることもたくさんあるということを経験しました。
                            野村


野村さんは原稿の字数を押さえるために少々無理をしてくださいました。その分、番外にコメントをいただきましたが、これも皆さんに紹介したいと思います。

百人一首の中の<きりぎりす鳴くや霜夜の さむしろに… >を詠った摂政九条良経は、生涯、この<さむしろにころもかたしき>を経験したことは無かっただろうと思いますが、そういう人物が和歌に残すというのも面白いと思います。
 
聚光院の襖絵は今年2003年10月31日(金)〜 2003年12月14日(日)の間東京の国立博物館で展示されます。素人目にも痛みが激しく、件の女子大生の話では、近々修復されるとのこと。当分、見られなくなるかもしれません。
ところで、なぜ聚光院の襖絵だったか、といいますと、ここの襖絵の絵師狩野永徳の描いた、上杉本の洛中洛外図に大鋸で製材された板材を運んでいる人々の姿(1560年代)が描かれており、一般民家に板が普及してくるのはこの頃だと思われるからです。
遺構としては発見されないでしょうが、絵画資料としては16世紀の中頃に建築資材の分野での産業革命(誇張した表現ですが)が起こっていた証拠であると思っています。古い民家が残らないのは当たり前で、現代の日本でも、一例だけを考えても、窓枠は全てアルミサッシになってしまいます。だれも隙間風が入るような窓や戸を作る人はありますまい。そう考えると、絵画と文学に残っているものを見直すことが大切だと思いました。』



◆今月の隆眼−古磯隆生

−傘がない 井上陽水

今回は建築やまちづくりからいささか脱線します。
井上陽水の歌を聴いたことは以前なくはなかったのですが、これまで特に興味を抱きはしませんでした。それがこの1年ほど‘はまって’しまってます。きっかけは陽水の“傘がない”です。今となっては恥ずかしい話ですが私はこの歌を知りませんでした。1年ほど前たまたまテレビでこの歌を聴き、家内に「陽水がなかなかいい歌を出したよっ!」と告げたのがことの始まりです。「何言ってるの?もおずいぶん昔の歌よ!」… 何?
陽水と私はほぼ同じ年代です。この歌が発表されたのが1970年代初めですから、当時、全国の大学で繰り広げられた大学闘争(社会は大学紛争と呼んいました)が終焉(敗北、挫折)に向かい、空白感に浸されていた頃です。しかし、このエゴイスティックな曲は私の耳には全く届いてきませんでした。多分、第一世代のフォークソング高石ともや岡林信康、などなど)のみが私の気持ちの対象になっていたのでしょう。それが30年の時間を経て、私にズドーンと響いてしまいました。人を食ったような歌詞…筑紫哲也曰く…ですが、
愛する人以外は目に入らないこの一途さ、われわれが(私が)忘れかけているもの(この世界、この状況だからこそ)をズドーンと突きつけられたような感覚に陥りました。ここに原点が…と。
最近、鬼塚ちひろの歌に興味をもっています。なかなかいい感性の音楽です。現代の若い人達のナーブな感覚が感度よく表現されてると感じています。この鬼塚ちひろと陽水を仕事の合間に時々聴いていますが、今更ながら、陽水音楽のバラエティー溢れる幅広さ、創造性には感心させられてしまいます。 
                           


◆様々情報

・前回の百名志保子さんの〈 スローフード〉へ感想をお寄せいただきました。

『 いい言葉ですね。こんな言葉があることも知りませんでした。現代の日本の女性は飾る、食べる、携帯するが3するらしいのですが、料理は出来ないくせにやたらとあの店は美味しいとかお勧めよ!なんて言ってます。小生、単身赴任のため,外食ばかりですが、小料理屋も影をひそめ、定食屋もチェ−ン化したところばかりで、困っています。是非、こういう運動をひろめて頂き和食というか、家庭料理や伝統的な食事を維持してもらいたいものです。いい話をお聞かせ頂き感謝申し上げます。』