★ Ryu の 目・Ⅱ ☆ no.2

◆今月の風 : 話題の提供は尾澤肇さん

今月の話題を提供して下さった尾澤さんは海外勤務で世界の様々な国を見て回られた方です。今回はニューヨークに赴任されたときの経験をもとにお話をご提供下さいました。
 
『都市の景観について〜ニューヨーク郊外に住んだ経験から〜』 

どこの国にでかけても同じかもしれないが、住むところの選択は一重に所得にかかっている。住居費にどれだけ割けるかによって、また家族構成によって,子供達にどういう教育を施すかによって、そして勤務先までの通勤時間によって選択肢がしぼられてくる。ことに海外においては、居住環境が安全であるか、学校制度(公立学校を考えたとき)がどういう具合かが特に大きな問題になってくる。単身であれば比較的簡単ではある。二度目のニューヨーク勤務に際して私は単身赴任でもあったので、ロングアイランドのナッソー群、ポートワシントンにアパート暮らしをした。90年代の初め、湾岸戦争の頃である。
ロングアイランドは、マンハッタンとイーストリバーを隔てて対岸に位置する細長い島で、ニューヨーク市の、ブルックリンとクイーンズの二つの区はこの島に含まれる。この2区を除いた部分が一般的にはロングアイランドと言われている。もともとは農業地帯だったこの島は市部に近い割には風光明媚で、海水浴に適した浜や、ヨットの繋留にぴったりの入り江に恵まれていることから有産階級の大邸宅やセカンドハウスが点在している。映画「ジョーズ」の舞台になったジョーンズビーチもこの島にある。いまだにプライベイトビーチもかなり残っている。枯れていた木々が春になり一斉に芽吹く時期になると、これがおなじ場所かと思えるほど美しい。なるほど花水木がこの国を代表する木なのかと納得できる。秋には,黄葉が見事で、ニューヨークのアップステイトからニューイングランドにいたるそこかしこ、美しいところである。
アメリカは建国の歴史が浅いため、何百年にもわたる歴史的な遺産は、先住民のものを除けばヨーロッパ諸国に比べて乏しい。しかしながら、近代資本主義で成功したとてつもない資産階級が、金に任せて豪邸を建てまくった。荘園といってもいいだろう。ヨーロッパの由緒ある建物が取り壊される度にそれを買取り持ってきて移築した。新しい建物でもかれらの先祖の国の建築様式をまねてたてた。美術品、装飾品にいたるまで、、、それはメトロポリタン美術館を訪れれば一目瞭然である。
こういった資産階級でも所得税相続税を前にして、何代にもわたって維持していくことは余程大変な様で、代が変われば所有者が変わり、新しい開発の対象になっていく。
東京あたりだと100坪ぐらいの家の移転したあとには3−4軒の家が建てられてしまうことが多い。流石にアメリカではミニ開発というのはないが、状況は似たり寄ったりで一区画が小さくなっていくことは否めない。こういった事情についてはネルソン・デミルの小説「ゴールド・コースト」(文芸春秋)に詳しい。ロングアイランドの中級以上の居住区では、自分の庭の立ち木が大風で倒れたからといって市の許可を得ずに勝手に処分することはできないところが多い。コミュニティーの共通の資産だと考えるからである。いい環境を維持していくためには不自由さという代償を払わねばならないのである。フロントヤードはいつも芝が青々としていなければならず常に芝刈りやメインテナンスにおわれる。芝が伸びていれば欠かさず近所からクレームがつく。枯れてしまおうものならたいへんである。植栽や花壇や夜間の照明にしても、もうこれは趣味のガーデニングをとおりこして、コミュニティー全体の資産価値を低めないよう必死な努力をしなければならないのである。
そして最終的には、コミュニティー自体が安全を確保するために自ら警察(日本流に言えば自警団か、、、)を持つようにもなるのである。所詮貧乏人が住むには程遠い地域となる。しかし、税制の面での優遇措置もあり一軒家に住むことは大変ではあるが、日本に比べればはるかに所有しやすくなっていることもまた事実である
都市を形づくる要素は実に多様である。パリやローマのようなところであれば、歴史的な遺産に考慮しそれと調和を図ることは当然であろう。自然や気候風土によっても建築の工法や材料が異なってくる。しかし、個人個人の経済力、その地域全体の経済力が家作り、街づくりにもっとも影響する要素なのではないだろうか。一区画あたりの広さ、建物の外観(特にファサード・デザイン)やアプローチに影響をあたえ、そしてコミュニティー全体の経済力が街並みそのものを価値あるものとして生み出していく。
マンハッタンでもその昔は、島のなかほどに有産階級が住んでいたが、人口が増えるにつれてだんだんと北のほうへと移り、最後には市部から抜け出してしまった。セントラルパークの周辺の建物がその名残をとどめているにすぎない。今マンハッタンの高級マンションにすむのは新興の金持ち達である。資産階級が逃げだした後には、色々な人種が固まって街を作った。リトルイタリー、中華街、ハーレムとよばれる黒人街、ユダヤ人街、ヒスパニック系の地域,、、等々である。人種ごとの居住区も自然発生的にそのように落ち着いたとしか言いようがないが、できてしまえばそれはそれで都市の構成要素となってしまう。これはこれで、別の社会問題にもなってくるのだが、、、
王侯貴族、資産階級を厚く保護していれば、環境は結果として良好に保たれる。いわゆる緑被率もクリアーされるだろうし、なによりも街の密集感もうすれるにはちがいない。極端な事をいえば、皇居の存在が東京のセンターゾーンを形づくっている。
しかし近代市民社会にとってはそうとばかりはいっていられない。発展途上国に対して、これ以上の開発をしないようにおしつけるようなものだからである。そこで、ゾーニングという考えも出てくるのだが、これも基本的には経済性と密接に関係してくるのだ。また行政に知恵のみならず、資金がないことには指導力の発揮すらできないことになる。
日本ではそれ程多くはないが、横浜や神戸の中華街、大阪の鶴橋界隈の韓国人街、がそれにあたる。そのうちに、東京でも、赤坂界隈、新宿歌舞伎町あたり、錦糸町周辺はアジアンタウンに変貌するにちがいない。
高さ制限など関係なく競うように建てられた高層建築が遠景としてみたマンハッタンのスカイラインを新たな価値たらしめているし(マンハッタンと東京中心部の容積率を比べればその差は歴然としている)、別の視点で、個別には結構醜悪でけばけばしい建物の集合体であるラスベガスも全体を観光資源としてみた場合の価値は非常に大きなものとなっている。しかしマンハッタンの高層ビル群にも上層部に居住スペースの設置が義務づけられているところ、(いわゆる空中権が発生する)があり、市の中心部からの人口流出空洞化をふせいでいる。たとえば、ビジネス街に位置する近代美術館も上層部は高級分譲マンションとなっており美術館の運営にとっても貴重な財源のひとつになっている。混沌とした状態があって新たなるものが生み出される。ニューヨークに住んでみれば分かるが、えもいえぬエネルギーを感ずるものである。規制は少ない方がいいとアメリカ人達は考えているようだ。自らの住むところは自ら守る。規制と調和ということを考え出したとたんに、もう一つのほとばしるエネルギーとは決別するものなのだろう。マイアミなどは高齢者ばかりが目立つようになり若者にとっては魅力が失せてしまったようだ。こうなってしまうと都市そのもの機能も非常に変わったものにならざるを得ない。
東京でも地域をかぎって、日本だけではなく世界中から建築家を呼び、何の規制もなしに一斉に数棟の高層住宅兼ビジネスビルを競って建てさせてみたら面白い。何年かすると世界の新しいシンボルゾーンになる可能性がある。
欧州の歴史保存地区の建物では建物の外側をいじることはできない。建物の躯体の中は割りと自由に住む人の意向に沿って改造することはできるようである。建物の色についても厳しい規制がある。好対照ではある。
都市は生き物である。何よりもそこにすむ人そのものに依存する。都市環境そのものも,単に静的に捕らえるのみならず、人に一生があるように常に若返りを果たし、多様な人々に多様な機会を提供できる動的な刺激的な存在であることが望ましい。まさにニューヨークはそういった意味でも常に最先端を行く都市なのである。だからこそ9.11事件で大打撃を受けたがこれを乗り越えビジネスの、そして芸術の拠点としてさらに発展し続けるに違いない。何度でも行ってみたい町なのである。



◆今月の隆眼−古磯隆生

−ふたたび街並み景観について−

旧正田邸の保存運動がテレビニュースを賑わしています。前回の国立訴訟とは事情は異なるものの、街並み景観という点では共通する部分があります。先日、日本建築家協会がこの問題に関して財務大臣に要望書を出しました。その中に「街並みが 地域の文化・歴史の総体的表現であることに鑑みますと、景観を潤し かつ 地域の記憶を体現するこうした個々の建築は、…」というくだりがあります。旧正田邸が街並み景観を構成する要素として優れていたかどうかは別として、少なくとも“地域の記憶を体現する”…皇后の生家であることの意味ではなく、建築様式的な面において…ものであることは確かでしょう。
35年程前、東京日比谷公園に面した旧帝国ホテルの保存問題が話題になりました。アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの設計した文化的、芸術的価値の非常に高い建物でした。そして何よりも日比谷界隈にオアシスのような空間を提供していました。結局、企業の営利優先(このハードルが高い!)で、現在の何の変哲もない高層ホテルに建て替(変)わりました。今、あの場所で、もとの建物を生かした利用がなされていれば、どんなに都市空間が潤い、たのしい景観が形成されていただろうか…そのことが企業イメージをどんなに押し上げたことか…と想像されます。
日本の現代都市はその大半が過去の記憶を躊躇無く消滅させてきました。三つの出来事に共通するものは、都市設計の視点の欠落であり、街並み景観に対する社会的意義の認識の欠如です。建物は建った時点で、たとえ個人住宅であろうとも、社会性を纏うことになります。ですから、たのしい街並みを創出する義務は暗黙の内に課せられていると考えるべきでしょう。そのような市民社会はまだ緒についたばかりです。                   


◆様々情報

・昨夜NHKテレビで〔NHKスペシャル−こども輝け命〕という番組を放送していましたが、ご覧になりましたか?深い親と子の絆、子供の生きる力強さ、を改めて見せつけられた感じでした。意気軒昂な世界を子供達に示せず、長い不況で意気消沈気味のわれわれ大人に、逆に、子供達が生きる元気を、強さを、見せつけてくれたようでした。

・前回の『国立市マンション訴訟に思う』で、何人かの方々から同感のコメントをいただきました。その中から一文のご紹介 「二十数年前に井の頭に住んでいた私も、三鷹台の駅の改札を2階にする時、井の頭線のすべての駅の階段の段数を調べて発表した事がありました。三鷹市の住人は見識の高い人が多く住んでいる街だと前々から思っていましたが…」と
いう三鷹市民にとっては何とも嬉しいような、お尻がむずむずしそうな、面映ゆいものもありました。