★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.188

夏真っ盛り、まだまだ続きそうです。
ご自愛下さい。

沖縄の翁長知事が亡くなりました。これからだったのに・・・。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.188》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は空閑重則さんです。

−貿易戦争の不思議−

米中貿易戦争が勃発した。しかしこれを「戦争」と呼ぶことが筆者にはどうも腑に落ちないのだ。相手からの輸入品に高い関税をかけるということは、どうしても買いたい消費者は差額を負担して買う訳で、これは自国民に対する単なる増税である。西欧列強が植民地を持っていた時代、列強は植民地の資源や労働を自国内よりも安価に手に入れることで繁栄を享受した。ならば植民地でなくとも資源や労働を安く売ってくれる国があるのならありがたい話ではないか。
安くて良いものを売るのがケシカラン、というのは自分が買うのを我慢できないから困る、つまり「饅頭怖い」の論理である。
結局貿易摩擦と言うものは、変化する世界に自国の社会をどのように適応させるか、と言う問題から発している。米国の自動車産業(一例)が世界のリーダーではなくなった現在、該産業に変化と適応を求める代わりに関税で輸入を制限するというのは選挙目当てのポピュリズムというべきだろう。

技術の進歩は多くの人の職を奪う。明治になって製紙工業が西欧から入ってきた時、和紙製造業は一夜にして終焉した。それまで紙は大変な貴重品であったが、洋紙の出現によって新聞・雑誌の出版業が成立した。手すき和紙は1平方メートル足らずの紙一枚を職人が数十秒かけて抄き、それを多数重ねて重しをのせて水を搾り、それから一枚一枚板に貼りつけて乾かすという方法で作られる。洋紙の機械抄きと比べれば、生産性においておそらく数千倍か数万倍の差があるだろう。(事情は欧米でも大差なく、連続抄紙機が発明されたのは1808年である)
重要な産業だった手漉き紙産業に日本全体では数万から数十万の人が関わっていたと思われる。しかし上記の生産性の差は圧倒的で、製紙産業での打ち壊し(Luddite)の話など聞いたことがない。手漉き和紙は今も細々と存続しているが、用途は工芸品・美術品である。(和紙の質感は洋紙には出せない。しかしコウゾやミツマタを原料にすれば機械抄きでもほぼ同じものはできる。)
そして現在、隆盛を誇った製紙業が下り坂である。コンピュータ・スマホによって紙の消費は着実に減り、製紙会社は皆業態転換を必死で模索している。
好況なのはアマゾン向けの段ボール紙のみ!世界的に見ると日本は保守的で、まだ紙幣を大事に使っているが、いずれは中国のように電子決済が主流になるだろう。

似たような話で、米国でも中国でも現在音楽CD・DVDの専門店・レンタル店はほぼ存在しない。その需要は皆ネット経由に置き換えられたのだ(正確に言うと、中国の場合はできる前に消えた)。こうして見ると、日本は技術的イノベーションは早く取り入れるが、社会的イノベーションに対しては反応が鈍い感じがする。
まあ筆者などにはこれぐらいがちょうど良いが。



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その35/敵もサルもの −

ここ白州に移住した時、我が家には大きな栗の木がありました。過去形で語らなければならないのは、昨年突然枯れてしまったからです。樹齢五十年は過ぎていたと思われます。この栗でお正月の栗きんとんを作っていましたのでとても残念です。
この栗の木は毎年大きな実を沢山つけていました。秋の恵みです。その恵みは我が家にもたらすだけではありません、サルもその恵みを享受するメンバーです。サルにとっては多少人間の目が気にはなるものの、自然の恵みは全て生きる為の対象です。里山が崩壊し、群れを成して人里に出没するようになりました。
そのサルは毎年その時期になると虎視眈々と狙っています。我々も狙っています。我々は木に登って栗取りをするわけではないので、落ちてる栗を拾い集めます。サルは木に登り、木を揺すり、栗を落として、良さそうな栗を食べます。
食べ終わると食い散らかして他に移ります。我々は実はサルが落とし残した栗や自然に落下した栗を拾い集めていました。サルと競争になるのは、自然落下した良さそうな栗の奪い合いです。可能な限り、群れが来る前を狙って栗拾いをします。我々の目の届く時間帯に群れが来ると追い払いますが、サルは木に登ってこちらを見ています。木に登ってこないのを知っているからで、高みの見物を決め込みます。どっちが先に諦めるか、にらめっこと言ったところです。
こんな事が毎年秋に繰りひろげられていました。

もう一つ、サルとの競争はブルーベリーの収穫です。我が家には道路に沿って十数本のブルーベリーの木を植えています。植樹してから5年位経過してそこそこの収穫ができるようになりました。が、毎年7月の時期になると目が離せなくなります。サルとの実の取り合いです。ブルーベリーの木は高さ1〜2m程ですが、サルは実を食べるのに枝を折ります。これが始末が悪い。折角張った枝が無惨に折られ、翌年の木の成長に影響します。それは収穫量にも影響します。幹から折られていたこともありました。
先日、車で帰宅すると、サルがブルーベリーの木に群がっていました。車が近づくと、サッと道路の反対側に逃げましたが、そこで様子見をしています。車を止めて、窓を開け、様子見してるサルを睨むと、向こうも睨み返してきます。
“何か文句ある?”と言った風情で、逃げる様子はありません。車に乗ってるからすぐには攻めて来れない事を知っているからです。車を駐車場まで移動させる間にはブルーベリーの木に戻っていました。車を降りて、ダッシュでブルーベリーの木に向かうとさすがに今度は急いで逃げ去りました。こんなことの繰り返しをしながら、それぞれが恵みを享受しています。(写真貼付)
尤も、農家の方はそんなこと言ってられないようです。
収穫したブルーべーリーはジャムにして、朝食のヨーグルトに加えて食べます。
自然の恵みに感謝!感謝!の生活です。


◆今月の山中事情148回−榎本久・宇ぜん亭主


−雑感三題−

●あらためて言うことではないが、人間は夥しいゴミを作り出し、その処理に悩んでいる。
それもたかだか百年 このかたのうちに起こしたことである。(宇宙 ゴミも含む)
人間以外の生物は排出したものはきっちりと循環をしているが、人間のそれは循環出来ぬものを作り出してしまった。このままの状況が続けば、人間は地球を壊すことになろうと、専門家は口々に警告を発している。本来なら各国の為政者がその危険性を察知しなければならない筈なのだが「フンコロガシ」という虫の知恵にも及ばぬ判断で今日に至っている。
プラスチック、ビニール、原子力発電の廃棄物等々、豊かさの代償によって造り出された処理出来ないゴミのことを七つだか八つだかの国が集まって話をしているようだが大国の横暴ばかりが目立ち、他国の無力さを知る。

●憎悪が私にもあった。悲しく思う。
相手は私とは一切関わりがないにもかかわらず、言動や書物などを見て、その人を勝手に忌み嫌い、批判をし、あげくに罵声を浴びせた。その人に会い、直接とった行動ではないが、こうなると「人間愛」などと口走ってはならない。
相手との乖離があることが解ったことにより、歩みよったり、理解しようという心より、嫌う心が勝り、それが知らず知らず、憎悪になっていた。私にもそ の心がもたげていたのである。しかしこのことは決して許されるものではなく、心を広く持たねば争いとなってしまう。

●人を助けるということは医師の専売特許ではない。助けるという意味は命のことばかりではなく、そこに生じた喫緊の課題に対し手を貸すことである。それはどんな人でもその任にあり、無駄な存在の人はいないのである。それ故使えない奴と葬ってはいけない。
我が仕事であるめし屋は食事を作ることによってその糧を得てもらう。大工さんは家を造ることにより、家族の場を確保してくれる。電気屋さんも宅急便屋さんも美容師さんも役者さんも、とにかくありとあらゆる方々のお陰で助け助けられている。それは決して大ごとではなく、そういう方々の複合によって世の中が形成されている。
ただし、政治家と公務員はそのことが「義務」であり、自分を助けてはいけない。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー

 今月の一枚は二十歳前に描いた素描画です。
  ベートーベンのライフマスク。
  当時はベートーベンの曲を毎日のように聴いていました
  お楽しみ下さい(写真貼付)。