★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.141

秋の気配が漂ってきました。
夏らしさが余り感じられなかった今夏。
その影響はどんな風に現れるのでしょうか?
さて、どんな秋になるのかな。

先日、我が家の網戸ににかげろうらしきものがとまっていました。写真貼付します。
果たしてかげろうでしょうか?ご存知の方教えて下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.141》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二 さんです。
        筑波大学で講演された話をご提供いただきました。

“一大事とは只今の事なり” 一遍上人鎌倉時代中期、1239-1289)
                     2014年7月1日、筑波大学にて
■序説
表題の「一大事とは只今のことなり」は、鎌倉時代の聖者一遍上人が残した言葉の一つである。この凄まじい行者の姿勢が、現実を見つめる鋭い眼を養い、正しい判断の下に厳しい決断を下す力になる。人は見たいと思うことを観て、聞きたいと思うことを聞く傾向がある。これは芥川が羅生門でも指摘したし、ローマ時代の天才ユリウス・カエサルも同様の言葉を残している。また、或る人は先見の明がある、と言うが、実は、多くの人がその能力を持っている。
しかし、先入観に囚われて心に曇りを生じ、自分の眼や耳を信じないようになってくると問題が生じる。しかし心が澄んでくると無垢な心が戻ってきて物を見透せるようになる。知識が増えるほど、色眼鏡の度合いが強くなり、物をみているのが果たして自分だか他人だか区別がつかなくなる。人気建築家の作品に似せてデザインをすると、皆に褒められて、いい気分になったりする。実は、他人の眼と頭脳に助けられて製作したのかも知れない。もしそれが「良いこと」なら、グーグルで検索したり図書館に行って豊富な知識を得たほうが早道だ。

この世で「価値判断」ほど大切なことはない。私は先に「良いこと」と言たが、それこそが「価値」なのだ。「価値の判断」とは「良いことの判断」である。大学では、「良いこと」を覚えるためだけに授業に出席するのではない。先人の到達した「良いこと」を見つけるためだけに図書館へ行くのでもない。大学とは自分のための「新しい価値の基準」を模索して構築するために行くとろだ。もう一歩突っ込んで言えば「新しい知識と作る」ために行く所だ。過去において偉い人が苦労して築いた「価値基準」がどのようにして築かれたかを研究し、自分の新しい「価値基準」の礎を構築するための栄養にすることは、大変良いこと(価値のあること)だ。建築作品でも、学術論文でも、理工系の発明発見でも、自分の価値基準を基に自分が創りだしたものであるならば、それが成功するか否かで胸がドキドキする。新しいことはある意味では危険でさえある。世間から批判され叩きのめされてしまうかも知れない。どんな有名な学者も藝術家も政治家も、もし彼等が彼等自身の新しいアイディアで有名になったのなら、その人達は、発表の際には大変心配でドキドキしたと思う。大変なリスクを覚悟して発表した筈だ。アインシュタインピカソモーツアルトのように。

私は幸運にも、菊竹清則建築設計事務所ルイ・カーン建築設計事務所など、新しいものを創りだした世界的大建築家の下で建築の仕事をする機会に恵まれた。彼等が新しいアイディアを発表の際に、如何に神経質になり、ドキドキしていたかを目の当たりにした経験がある。心配と興奮の混ざった瞬間であった。私が知っている大建築家は、自分の事務所員が持っている才能を吸い取る才能もあった。言い換えると、よいアイディアを見抜く眼を持っていだ。才能に恵まれた所員とその才能を採用する能力のあるボスが協力すれば、1+1=3が成立する。これが私の数学であり哲学である。
大学の建築学科における課題では、担当教授と学生とのせめぎ合いのようなときもあるが、現実世界では、大分違ってくる。施主や銀行、都市計画家や構造や設備の技術者、時には藝術家などの多くの異なる職種の人々の協同作業となる。理想的には、参加者にそれぞれの才能を十分に発揮してもらい、建築家がそれらの才能を一つの方向にまとめて最終的に一つの完成品として仕上げる、という筋書きだ。ここでの協同作業で、各参加者がそれぞれの才能を十分に発揮して最終成果に大いに貢献することが要求される。質量とも貢献度が極端に少ない人は、この協同作業には不必要な人である。要するに各分野からの創造性に溢れた質の高い貢献が期待される。これらの創造性溢れる様々なアイディアは、共通言語を使うことによって各参加者が共有して完成品へと組み込まれていく。言い換えると、Collaboration(協力姿勢)、Creativity(創造性)、Commonly sharable sense(共通言語)の3Cが一本の束になって初めて1+1=3になるようなCollaborationの成果が期待される。3本の矢を一つに束ねると強くなる、という話とよく似ている。
では、一人で本を読んでる場合の3Cはどうか。読書とはその本の作者との会話であり、議論であり、collaborationである。親と子供、教師と生徒、売り手と買い手、どれもがCollaborationの状態である。よく知っているようで忘れがちなことに、自分の人生劇では自分が常に主役である、ということだ。輝くような人生であっても、情けなくなるような惨めな人生であっても、その主人公は、常に自分なのだ。どうせ一度の人生なら、素晴らしいものにしようではないか。自分とのcollaborationなのだから。
日本で中々成功しない「ゆとりの教育」は、「ゆとり」が自信と信頼に基礎を置いたCollaborationなのだ、と言う事が理解されていないからだと考える。普通、人間に「好きで得意なこと」をさせておくと、素晴らしいものが出来上がる。それは心にゆとり(余裕)が生じて、自分の趣味の世界に熱情を持って没頭するからだ。自分の全才能が開花することさえある。趣味なので、他人に対しても社会に対してでさえも余り責任を気にしないで夢中になれる。この状態を他人とのCollaborationの際に再現できたなら、立派である。自分の存在理由と価値がはっきりしてきて、しかも他人に認められれば気分がよくなり、嬉しくさえなってくる。もしCollaborator全員がこのような状態になれる状況を作りだせるリーダーがいればその仕事は成功するに違いない。リーダーとなる人の第一番目の大切な資格だと信じる。建築の課題では、問題提起をすることで、自分にチャレンジして常に目標を高くし、自分に創造性豊かな解答を作り出せるチャンスを与えることだ。これは、自分自身とのCollaboration なのだ。
以上のことは政治でも、商売でも、スポーツでも、研究でも同じである。特に趣味の分野ではなおさらだ。そして自然の大災害に対処する場合でも同じである。東北大震災の場合には、良くも悪くも全ゆる状況が発生したと聞いている。当然1+1=3のの場合もあったし、逆の場合もあったことであろう。

■発展
1+1=3Cをもう一歩発展させてみる。3Cとはすでに述べたように、Collaboration, Creativity & Commonsenseのことである。複数の人が一緒に仕事をする際には、参加している人のグループへの貢献度が問題になる。貢献度は、貢献できる量とその質とで決まる。特に質は決定的だ。量は人海作戦で達成で出来ることもあるが、質はそうはいかない。創造性 (Creativity) の質が重要なのだ。貢献度の程度を一言で言えば、“最終的な結果は部分の総和より大なり” となる。
現代の複雑な社会で、各分野の最先端の知識や技術が協力し合ってなされる仕事は、3Cを意識的に効率よく応用して達成できると考える。建築の分野は勿論の事、いま私が関係している自動車の協同研究では8分野の専門家が協力し合って切磋琢磨している。1+1=3Cを翻訳しなおすと、「一大事とは只今のことなり」と私には読めてくる。
なぜなら、これは常に現実を見つめてそこから本質を把握し、協力者全員の力を有効に使う競争の原理を言っているからだ。Just-in-Time的な産業の効率を念頭に置いた思考形式を指しているからである

◆ここで学生諸君への質問
小保方晴子博士やその前の佐村河内守の場合で、論文や作曲などの仕事内容が問題となっている。両方とも内容の信憑性がその焦点となっている。要するに「うそ」が何処かにありそうだ、とその分野では素人のメディアが大騒ぎしている。論文や作曲の「質」を問題にしているのではなく、倫理道徳を問題としている。政治家の金や、映画俳優の浮気の話のように、三流暴露記事的様相を呈している。
私はいつも学期の始めに私の学生に次のような事を話す。このクラスでは、論文や作品の盗作や物真似は問題にしない。隣に座っている人の作品を盗み見て、物真似をするのは悪いが、図書館で先人の作品の物真似をするのは良い」などという偽善的なことはこのクラスでは通用しない、と。隣の人がよいアイディアを持っているなら、積極的にそれを取り入れて学習してもらいたい。自分が苦労しても思い付かなかったアイディアを隣の人がすでに思い付いているが、それ以上中々発展できないで苦労しているのなら、自分は隣の人のアイディアを出発点として推し進めていけるので、隣の人よりも容易の発展させれるはずである。そのアイディアを急いで発展させて新しい到達点にたどり着いたらその結果を隣の人に御礼返しとして見せてあげればよい。そして二人とも新しい高みの解答に早く到達して自分の作品を創造してもtらいたい。1+1=3にしてもらいたい。
個人主義(利己主義では決してない)が強いアメリカでは、個人の個性、ID、特色豊かななアイディアなどを大切にしている。物真似は特に否定されている。私は、こういうアメリカの環境でこのような指導方針を採用している。読者の皆さんは以上をどうお考えだろうか。
私は、アメリカで日本のNHKニュースを見ている。日本での出来事はNHKの眼を通して知っている。時々ほかの番組も見ている。その一つに、アメリカの有名大学の有名教授が来日して、東大や早稲田で授業風の講演をしている様子を観ました。その教授は意識的に自分の論調を学生が反応し易いようにするためなのか、危なげな理論を意識的に展開してみたりしていたようだ。そのためか、聴衆からの反応は良かったように思えた。日本ではこれが特別授業として、テレビ番組のショーのような感じで放映されていたように思えた。しかし、あれは、アメリカの授業風景としては典型的なもので毎日行われているといえる。私も45年間毎日やってきた。反応の無い授業は誠に失望の念に耐えない。学生からの反応がないと1(私)+1(学生)=1(私)になり、ましてや1+1=3とはほど遠いと感じになる。

■応用
私は、建築科教授以外に日米関係推進のための学長代理(特別補佐)を20年間してきた。この仕事に関しては、目的、方法、予算、決定、結果、など全てにおいて、私が発案して実行し、交渉してその結果を報告する、独り相撲のような仕事で、全ての段階において、学長を代表して行っていた。と言う事は州立大学なので、州を代表しての仕事でもあった。失敗すれば当然私が責任を負い、成功すれば私の成績になるということである。仕事内容が経済開発に直接影響するので、州の経済開発部と州知事室を代表する、と言う事でもあった。私の成績になるということは、学長の成績になり、州知事の成績にもなることである。
さて、1989年に私が発案してサウスカロライナ州の日米協会を組織し、その一部として土曜補習校を設立して日本企業の誘致に勤めた。これは、日米文化、経済、教育などの交流を同時に促進する仕事になった。日本企業誘致で60社以上と交渉、協力、などをして、現在に至っている。更に新しく組織した会UJAC(US Japan Alliance with Clemson)(日米間3C)は、日米半々の会員とクレムソン大学のトップの教授が5人、そして、会の議長二人には、フジフィルムの社長とクレムソン大学の副学長にお願いした。これで大学と社会(企業)との協同体制が確立した。私が実行委員長となり、毎年1回ずつの会議を開き、第8回目が2001年9月11日であった。隣町のヒルトン・ホテルで会議を朝8時クレムソン大学の学長による開会の辞が終わって、ホンダ自動車による発表の最中に係りの者から「世界貿易センターが襲撃にあった」と書かれた紙切れをもらった。実はその数年前にすでに「世界貿易センター」は爆発物を積んだトラックに突っ込まれた前歴があったので、会義出席者には伏せておいて、ホンダの発表が終わってから、言われた通りに会議出席者全員でホテルのロビーへ行ってみて驚いた。大きなテレビが3台据えられていてその前に100人以上の人々が唖然とした真っ青な顔をして、ただじーっとテレビの画面を見つめていました。エアポートからの全ての飛行便は中止、電話やコンピュータは世界貿易センターには通じず。会議の出席者の本社が今正に崩れ落ちそうになっていた。一機目が突っ込んで二機目が突っ込む直前であった。国防省にも突っ込まれ、ペンシルバニアを飛んでいる飛行機にはF16戦闘機が飛び立って撃墜するべきかどうかを思案中ということであった。
即座に私が考えたのは、テロリストが一番目的としていることは、我々一般の人々の生活を激震させて、通常の行動を不可能にさすことではないか。それに対抗するには、会議を続行させて、無事に予定通りに終了させることではないか。平常心を保ち、Lifeis as usual. を前面に出して、この大事件を、ある意味で、無視することであった。私のUJACの会議の各企業の代表者は社長級の人達で、普段あまり人に命令される立場にはいない人たちだ。理屈は通用しないようだったので、日本の朝ラッシュアワーの駅員さん宜しく、腕ずくで80人ほどの各社の幹部の背中を押して、強引に会議室へ戻させ、会議を続行し、二日間の全予定を終了させた。

いつ何処でも、「一大事とは只今のこと」なのです。この会議でのコラボレーションは、結果として1+1=5になったように感じました。半年ぐらいしてから参加者の皆様から「よくぞ会議を完遂させていただき感謝しています。まさに危機管理精神の実践でした、すばらしい」というメールを頂いた。こういう種類のメールは私に自信をつけさせた。ある意味で、こういう場面に遭遇した事を感謝している。
私は9月19日に東京で薄暮会という大人の集会で「講演」をすることになっていた。主催者側は当然のように中止にしようと言って来た。しかも飛行機は一台も飛んでいなかったので、そうなるしかないな、と思っていた。しかし9月17日に最初の日本行きの便が飛ぶことになり、皆の反対を押し切ってこれに乗って東京へ飛び、講演を無事やり遂げた。お陰でそのグループの方々とは本当の意味の信頼関係で結ばれて、今でも非常に親しく付き合わせていただいている。1+1=8と判断した。
同年11月2日に予定されていたのニュ=ヨーク・マラソンも中止になった。私は走るつもりで5ヶ月間のトレーニング・メニューをこなしてきていたので失望はなはだしかった、10月の半ばにニューヨーク市長のジュリアーニ氏がニューヨーク・マラソン決行を再決定した。当日は、ジュリヤーニ市長は、ヤンキーズアリゾナとの野球のワールド・シリーズ選手権の第2戦と3戦の間の中休みを利用してニューヨーク・マラソンのヨーイドンのピストルを発射するためにアリゾナから帰ってきた。30000人のレース参加者全員が二階建てのスタットン島とマンハッタン島を繋ぐ橋の上で市長のピストルの轟音を待っていた。爆発物が爆発して橋が崩れ落ちれば大変な犠牲者が出ることになる。市長は拡声器を通して「橋の下には4隻の駆逐艦が、空には30機のヘリコプターが守ってくれているから、安心して走ることに専念してください。途中も全て、市と郡と州の警察が警戒しています。テロは我々の生活を変える事はできません。ランナーの皆さん頑張ってください」。私と同じ精神だ!私と市長、私と他の多くの走者、これは素晴らしいコラボレーションであった。結果は1+1=10であった。
以上の三件が私の9/11での体験談である。サウスカロライナのど田舎にいても、その気があれば世界と直接つながって、コラボレーションが可能なのだ。次に3/11の体験談に移ろう。東北地方太平洋岸一体を襲った大地震と大津波アメリカでも同時放映で実況していた。テレビの画面に映った光景は、想像を絶した末恐ろしい光景だった。私はCNNの画面に釘付けになり、二人のアンカーマン、Anderson Cooper とJohn King の二人のレポートと解説にかじりついていた。12日(日本の13日)にAnderson Cooper はすでに問題の原発現場にいた。その時メルト・ダウンという言葉をすでに使っていた。日本ではメルト・ダウンという言葉を使うのに一ヶ月以上掛かったと聞いた。これはGE(ジェネラル・エレクトリック社)が設計したものなので、その図面を使ってメルト・ダウンの解説をしていた。そのうちに東北地方の現場にいるAnderson Cooper とニューヨークのJohn King が一つの画面の中でしている会話がどうも辻褄が合わなくなってきた。どうもニューヨークにいるJohn Kingのほうが現場にいるAnderson Cooper よりも詳しく正しい情報を持っているようなのだ。私には直ぐに分かった。日本の政府も企業も共に情報統制(コントロール)をしていて、政府や企業に不利になる情報は直ぐには流さなかったからだ。面食らったのはCNNだと思う。信じがたい画面だった。1+1=0に近かった。
丁度、私は2011年4月16日のボストン・マラソンへ出走する準備をしていたので、被災地のためにアメリカにいる私が出来るただ一つの事、ボストン・マラソンを走ることで資金を募って現地へ寄付をする事であった。一人1マイル$?(26.2マイル=42キロ)で、私が完走したら寄付していただく、と言うものだ。短期間に100人以上の方々から$4,700(約470,000円)を寄付していただいた。無事完走して寄付金を国際赤十字を通じて送金した。そして今回は(私)+(津波)=寄付金 となった。更に私が理事をしている日米協会からは企業会員の寄付で$12、000(約1,200,000)を被災地へ贈った。その他、学生部の発案で、 クレムソン大学の校庭で50人ぐらいの学生が集まり、夕方まさに暮れようとしている時に、一人一人が手に持ったキャンドル・ライトの明かりで、私が静かに日本の「さくらさくら」をギターで弾く被災地と犠牲者の冥福を祈った。

■結論
サグラダ・ファミリアと未完成交響曲と書けば「未完成の完成品」のことを言っている、と直ぐにお分かりいただけると思う。しかし、サグラダ・ファミリアは現在完成されつつある。残念なことに30年前にした私の危惧が実現しつつあるようだ。アントニオ・ガウディには確かな完成作品のイメージは無かった。シューベルトの未完成交響曲の場合は、明らかに完成イメージはなく、未完成の美と聴き手の想像力が素晴らしいバランスを醸し出す機会を作っている。サグラダ・ファミリアは私にとって、バルセロナだけではなくスペイン全体のイメージとしてすでにシンボル化された彫刻であり、現代の助っ人達の想像でガウディのように見せ掛けているだけである。
ここで3C手法を使って再考してみよう。先ず、ガウディによるサグラダ・ファミリアの完成作品は存在しないのだから、完成作品の質の良し悪しは永遠に分からない。例えば、ダヴィンチの傷ついたモナリザを修復するのと、完成作品のイメージすらないガウディのサグラダ・ファミリアを建築的に仕上げるのとでは、文化的にはまるで異なる次元の話である。ダヴィンチの方は1+1=2 であり、ガウディの方は1+1=1又は0にもなり得る。現状ではコラボレイターの想像力(創造力ではない)が活躍しているのだ。この教会が完成した暁にはガウディでなくなる可能性が充分にある。
未完成交響曲には常に問題提起がある。指揮者とオーケストラの解釈によるシューベルトの楽曲を奏でてそして問いかけてくる。聴衆がそれに答えて曲を完成するのです。もしガウディの建築の質が薄まってしまえば、そこから生まれてくるはずの問いも生まれず、訪問者との対話は無い。その結果、一遍上人が叫んでいる「只今が一大事」は、サグラダ・ファミリアでは一大事ではなくなり、緊張も緩んで、3Cの意義さえも失われることになりかねない。未完成交響曲サグラダ・ファミリアも、共に作者と聴衆や訪問者とが一体となって行われるコラボレーションなのだ



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−日常−                    

この話題を書くきっかけになったのは、たまたま手にした9月6日の朝日新聞朝刊の別紙【be】の「フロントランナー」に掲載されたタップダンサー熊谷和徳さん(37歳)の記事を読んだからです。

ぜん息であまり学校に行くことができなかった和徳少年がマイケル・ジャクソンにあこがれ、裸足でタップの真似事を初めて以来、ダンススクールに入り浸りになった若者は19歳で黒人文化・タップダンスを求めて本場ニューヨークに武者修行。やがてブロードウェーのオーディションで頭角を現し、今年、タップ界のアカデミー賞といわれるフローバート賞をアジア人で初めて受賞。その彼が、ニューヨークで“9.11”を経験し、故郷仙台で“3.11”に見舞われ、被災の当事者に。ニューヨークで、“日常が続くことの奇跡”をかみしめ、被災地で「日常を継続しようとする意志こそが、ほんものの生きる力に変わるのだと思い知らされ」、“日常のいとおしさ”に気付く。今の日本にとって大切なことではとも…。
そして、「虐げられた人々の思いを察する想像力こそが大切です。誰もが加害者にも、被害者にもなりうる。互いの苦しみを想像し、支えあう気持ちを持つことが理解への一歩になる」と…。

3.11以降、私は“日常”の大切さをしみじみ感じるようになりました。そう感じられるようになった根底には、自然に恵まれた環境に移ったことによると思いますが、“自然”をより生活の中で感じ取ることが出来る“畑作り”をやるようになってから一層そのようになったと思います。移住以来、毎年繰り返される自然の移り変わり。その移り変わりの素晴らしさ、生物の営みを日常生活の中で感じています。そして、周りの農家の方々を見ていると、自然が安定して繰り返されることの大切さを目の当たりにします。そこでは安定した“日常”の繰り返しが望まれています、が、現実は様々な天候異変により困惑し苦労されている。手探りで自然と対話をしているようにも思えます。 

安寧なリズムが繰り返される日常生活では、ともすれば人は非日常を求め、刺激を欲する。その欲求を満たすべく様々な仕掛けが企画される。そんな企画が充満した現代生活にあっては日常も非日常も見境がつかなくなり、感覚も麻痺してしまうのではとさえ思われます。異変はそんな生活環境への警鐘かも知れません。
先月号のドカ雪の話は、“日常”の異変でした。そして、3.11は“日常”の破壊でした。異変が起きた時、あるいは破壊が起きた時、初めて日常の大切さがつくづく思われます。被災地ではその“日常”が取り戻せない“日常”が続いています。
いつものように繰り返されることの大切さ、それが継続して行くことの大切さ、そして、継続しようとする意志の重要性に気づかされます。

*「・・・」は記事より抜粋



◆今月の山中事情101回−榎本久・宇ぜん亭主

−やき茄子−

歳をとったからとは言いたくないが、このところ母が作ってくれたものが無性になつかしく思う。で、それを作ったりしている。やき茄子は時期も時期なのでその最たるものかも知れない。
子供の頃それが食卓に出ると少しもうれしくなかった。無味で歯ごたえのない代物は子供が好きになる筈はなかった。ところが、今となれば肥える要素は皆無であり、腹持ちもある。香ばしくもあり、消化もよいとくれば、理想の料理であることに気づく。子供の頃、不機嫌になっていたものが今、それがなつかしく、おいしいと思うようになったのはなぜだろう。
昨今の茄子料理をテレビで観た。茄子を当分に三枚切り、塩、コショーをする。オリーブ油でソテーにし、きつね色になるまで両面を焼いたのち、バターを入れる。その茄子にチーズをのせ、バジルを散らし、トマトのみじん切りをまぶす。再びオリーブ油を振りかけ、最後にバルサミコ酢をかけ、終了。
あれって、茄子の味はどうなっているの?
一方わがやき茄子はエライ!皮をはがされたやき茄子は、「八方だし」に浸され、小口に切った茗荷と生姜の繊切りをのせ、ガラスの器に納まっている。それは冷たい一品であったが、もちろん温かくても茄子の味をしっかり伝えてくれる。
何十年も生きて来て、母の料理を思い出し作っている。その度に体現するのは、何かが足りず、満足のいかない部分が喉の奥の方に残っている。それは調味料ではなかった。
料理を生業にしている私は、母のそれを下地に今日があると思っている。「おから」「きんぴら」」しらあえ」「切り干し」「ポテトサラダ」「肉じゃが」「さんまの煮つけ」等々決してきらびやかなものや繊細なものではなかったのに、心の奥底にひそむその味が思い出されるのだ。
古い時代のそれらは今も脈々と各家庭に受け継がれ存在している。どちら様宅も一様に母の味となっている筈だ。それはどんな高級料理をも凌駕して今日にある。
そして、何かが足らなかったその理由は、この世に居ない母をただ恋うて追い求めている我が姿でありました。味に足らなかったのは母の香りだったようだ。

“晩鐘や 夕餉はさんまのにほいして   ひさし”

宇ぜんホームページ
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