★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.96

12月です。一年が早いですね。
今年もいろんな事がありましたが、総じてあまりイメージのいい一年とは言えないようです。
政権交代も実感が湧きません。
さて、来年はどんな年になるのでしょうか。
少し早いですが、よい年をお迎え下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.96》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は有田泰裕さんです。

日本企業を定年退職後、趣味としていた中国語を磨くべく一昨年中国に語学
留学され、昨年11月に中国に日本語の教師として赴任されました。

有田さんの「新米日本語教師の日記」より


思えば遠くへ来たものです。中国江蘇省の北西部、宿遷市スーホン県は発展途上の田舎町と言いましょうか、近くに中国で4番目に大きい洪沢湖(琵琶湖の2.5倍)があり、蟹などの水産資源が豊かな人口百万の静かな町です。(蘇州からバスで約5.5時間)こんな所に日本語を通常科目として中学1年から学んでいる子供がいるのです。それも今の中学一年生で約250名ですから、高校3年までの6学年を考えると学校で千人以上の子供が日本語を学んでいることになります。信じられますか。(スーはさんずいに四、ホンは洪、日本読みは「しこう」)

興洪中学は中高一貫校で全生徒は約4000人、全寮制、朝5時45分に起床のスピーカーがけたたましく鳴ります。その後4000人が隊列を組んでグランドを駆け足します。それはそれは感動ものです。一発目の授業は中学一年生60名が相手でした。芋の子を洗うような60名もの子供を相手にすると、それはそれは大きな声を出さなければなりません。彼らの唱和する声も、鼓膜が破れる勢いで返ってきます。幼い頃のあの顔・この顔が私の目の前に生き生きと輝いています。

スーホンはこれが中国の田舎の町だ!と言う感じのあまりきれいでないところです。住まいは校内の官舎で無料なのですが、古いせいでしょうか作りは粗悪で・・・食事は学食で食べれば、ただで食いっぱぐれもないのですが・・・こちらの生活に慣れるのには、まだまだ掛かりそうです。60過ぎて異国の地で一人暮らし、俺もよくやるよと思う時があります。何が俺をそんなに駆り立てる。私はしばらくこの地で国際交流に情熱を燃やして見るつもりです。2009.11.18



◆今月の隆眼−古磯隆生

−住処探し・その15−

2008年10月の大安の体育の日に、地元の駒ヶ岳神社の神主のもと地鎮祭を行いました。朝7時に東京を出発し、10時前には現地に着いていました。地鎮祭には工務店の他、白州町在住の友人と土地を紹介してくれた不動産屋さんが駆けつけてくれました。気持ちのよい秋の天気にも恵まれていよいよ着工です。地縄を張って建物の位置も調整し、特に問題はなさそうです。翌年4月竣工の予定で工事は始まります。寒い地域なので冬時期の工事を心配しましたが、気になっていた基礎の工事は冬に入る前に完了することが出来そうで一安心。地盤凍結の問題は避けることが出来そうです。
実質的に工事は11月に入ってから始まりました。砂地の地盤ですが基礎工事も問題なく順調に進み、11月末には基礎もほぼ完成しました。遠隔地なので現場に向かえるのが2週間に一度程度となり、工務店への信頼度が重要になります。その間は、工務店のホームページから写真で工事の進捗状況を知ることが出来ます。これはとても助かります。
12月に入って足場も組まれ、地元県産の木材を使った小屋組の工事が始まりました。木材の加工は最近ではプレカット工法が普通となり、昔の様に現場で木を刻むことは殆どありません。工場でプレカットされた木材が現場に運び込まれて木組も順調に進み、12月半ばには上棟を迎えました。
ささやかに上棟式を行うため東京で祝い酒を用意し、現地に向かいました。現場に入るとまず木の香りが嗅覚を刺激しました。木造建物の現場ではこの木の香りが何とも言えない心地よさをもたらしてくれます。木組にはゆるみのない緊張感が感じられました。大工の棟梁は東京出身で、やはり白州に移住された方で、地元でも腕のいい大工として知られてる方でした。上棟の儀式は棟梁の取り仕切りで行われました。儀式は内々だけで行い、餅を撒く様なことはしませんでした。地方によっては餅撒きの習慣があるところもありますが、最近ではあまり見かけません。現場で一同会して食事をし、職人さん達への感謝の意を込めた式は無事終了。飲酒運転のチェックが厳しくなり、最近は上棟式でも大工さん達はお酒を飲むようなことはしません。飲めない大工さんも増えてきました。時代の変化でしょうか。
寒い冬を迎えましたが年内に無事上棟も終え、屋根工事まで終わればひと山越えます。
つづく


◆今月の山中事情56回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−みみず−

土中にてミミズは何をしているか?それは土壌を改良してくれる有り難い生き物だとそれを研究している方や、その恩恵を受けてる人々は言う。ところが俺からみれば、ただ土中に潜んで微生物を喰っているだけだと蔑んで見ていた。そんな俺もミミズに劣らず太陽を浴びていながら、土中にいる気分だ。何も出来ずに日々を送っている。ひたすら時だけが空虚しくそして確実に過ぎて行く。
だがミミズは中国では古来より漢方薬の材料として珍重され、日本でも近年
「薬効あり」と重宝がられている。ミミズは普通多くの人間には「嫌われ者」としか見られていないが、研究者やその恩恵を受けている人々には大変なヒーローなのだ。こうしてミミズは特定の人々には、ただ土中に住む「虫」ではなく、実際は大変役立っている生き物だ。
ところが俺は山中に茫然と佇んでいる。病後の身体は夢や希望さえ拒否している。何事にも自信を失い、思うこと、提案されることを考慮することなく一蹴している。そして瞬時たりとも、病の事が頭より離れない。今まではものごとにのめり込み、出来うることをやりとげようと意気込んでいた。今は全くそういう諸々がどうでもよくなった。身体が思うようにならないということは、行動を制限し、ものごとを深く考えることが出来なくなっていた。
又、この病気に対する行政のサポートがもう少しあるかなと思っていたが、
〈要支援?〉と認定され、内心不満もあった。つまり行政的サポートがほとんど無く、半年に一回の聞き取り調査で途絶えた。逆に言えば、普通の人になっていたとよろこぶべきだと思った。生きるため仕事をしている。仕事とは名ばかりだ。ほとんど実体がないのが現状だ。夢の見れない日々は苦しく、悲しいばかりだ。慟哭や嗚咽をしながら、何かに縋っている。孤独がそれに追い討ちをかけ、淋しさを煽り立てる。
同病の経験者のお客様が「必ずその考えの真反対のことが起きるからもう少し辛抱しなさい」と言ってくれた。心の荒んでいる俺には一瞬の一喜一憂であった。それでも看護士さんやケースワーカーさん等が根拠もなくただ「大丈夫」と言って貰うだけで何やら勇気を貰ったような気がしたのはなぜだろう。そういうことは医師は言わなかったのに。
毎日五時頃目を覚ます。発症以来ずっとだ。今は庭に出て深呼吸や軽い運動をし、お経を読んでいる。袋小路に追いつめられた心境をほぐす唯一の方法としてそのようにしているが、脳梗塞というダメージはなかなかとれるものではない。加えて心房細動という心臓の病気も決して安心出来ない(手術はしたが)。
重要な機能を患っては、心がこのようになるのは当然なのだ。
生老病死とは言ったものだ。俺は生、老、病まで経験してしまった。これ迄何度も命を失いかけていた。今回で六度目だ。それでも俺は生き永らえている。運がよかっただけでは片付けられない、説明出来ない何かがある。完全に命を意識して毎日を繰り返している。命はあたり前にはないのである。与えられていることをつくづく感じる。であるから、生き続けられるだけ生きなければならない。京都の知り合いの住職に「無事是貴人」としたためて貰った。
恨みのようなものはあるが「その要因はすべて己にある」わけだから、焦っても仕方ないことを知った。
四ヶ月の入院と五ヶ月の休養は俺からありとあらゆるものを根こそぎ奪い、屈辱や困憊、混迷を置いて行った。最先端の医療を受け、今はそこから脱却しかけている。茫然と佇む今の姿をなつかしむ日が来る日を望んでいる。ミミズのように暮らすのは不快だが、誰かの為に役立っているミミズの存在は確かであるようだ。俺もそうでありたいと思う。

この文は九月に書いた。今はもう少し心が元気になっている。

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