★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.56

やっと梅雨が明け、暑い、暑い、暑い夏になりました。
暑気払いに忙しくなりそうです。

参議院選挙は予想を超える結果でした。これから日本の政治が本当に変わるかどうかわかりませすんが、少なくとも緊張感ある政治は期待できそうです。

厳しい暑さが続きます、どうぞみなさんご自愛下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.56》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は戸倉信枝さんです。
前回は3回にわたって南フランスの旅の話でした。今回はロシアの旅です。
我が姉も同行しました。3回に分けておおくりします。
マチスの絵に同化(?)した筆者の楽しそうな写真(添付)は印象的!です。


−ロシア旅行記録−

95年から始めた隔年毎のクラス会旅行も第7回目。今回は「 壮麗なるロシア美と至宝めぐり8日間(6/21〜28)」の旅でした。総勢37名の団体旅行。メンバー構成は、私たち山口県宇部高校のクラス会旅行組の8名の他は、夫婦8組・3人姉妹・母娘・80歳の女性同士・75歳位の女性同士・50代の女性同士・ひとり参加の女性が2人。
「クラス会旅行の熟女8名」(関東から4名・山口県から4名)は、「還暦旅行」と称したが、それにはすぐに他の参加者から異議が出たらしい。夫婦参加しているその妻は、どう見ても自分より歳が上に見えると云っていると聞いたが、あくまでも私たち8名は「みんな還暦旅行よ!」と背筋を伸ばした。

アジア大陸の北半分とヨーロッパの東半分を占める世界最大の面積を持つロシア(日本の45倍)。広大な国土ながら、ツンドラ等の厳しい自然条件もあれば中央部のウラル山脈を除けばほとんどが平らな大地のロシア。人口が集まるのはヨーロッパ地域(今回の私たちの旅行地)と中央アジア諸国周辺(イルクーツクバイカル湖)とそして極東(ハバロフスク)と偏っているロシア。日本とはサハリンや千島で近接しているのに近くて遠いロシア。1991年に「ソビエト連邦」が崩壊し民主化へ移行して10数年という歴史の浅いロシア。優れた文化や芸術を限りなく生み出しているロシアとは?白、青、赤の帯が水平に並んだロシアの国旗は、ソ連崩壊後に現在の旗が復活したもので、白は高潔、青は正直、赤は勇気を表す。また白は神、青は皇帝、赤は国民を表すとも。 

成田空港でSU(アエロフロート・ロシア国際航空)に搭乗するのに、空港検査では、全員靴を脱がされて手荷物と一緒に籠に入れてから検査所を通過する。胴巻きのキャッシュベルトにも鋭く検査の手が伸びて2〜3度洋服の上からトントンとチェックされたのちに無事にパスした。勿論、ペットボトルの飲み物も検査所は通過出来ないから、後で搭乗直前に購入するしかない。


21日正午に成田を出発したが、SUはお酒類は全て有料で3ユーロ(約500円)。海外旅行の飛行機内でのサービス酒の有料は初めてだったが、最近ではこれもありなのか。それに加えて飛行機は古いし、設備もあまり良くなかった。ワインが飲みたくて、ユーロを持っていたTさんから3ユーロをドルで買った。(ロシアへは米ドルで持参して、現地ホテル内の24時間営業の両替所でルーブルに替えた。)
モスクワのシェレメチェヴォ国際空港まで10時間半。そこからサンクト・ペテルブルグまで国内航空に乗り継ぐ為に空港バスに乗ったが、まるで一般道路を走ってどこに行くのかと見間違うくらい走った頃にやっと国内線空港ターミナルがあった。国内機に搭乗するにはまた空港バスに乗り込みやっとのことで国内航空機に乗れた。
モスクワから約1時半でサンクト・ペテルブルグ空港に到着。サマータイムで日本時間よりマイナス5時間が現地時間であったが、ホテル到着は23時前。何とそこは「白夜」だった!6月22日をピークとする「白夜」のその前日の21日に私たちは飛び込んだのだ。今日から3日間この白夜を体験するのだと思うと何だか感激した。ホテルの窓からは、夜中の1時だというのに、どこまでも遠く遠く視野は広がる。夕暮れなのだが薄明の明け方のようなその空に包まれた景色を飽かずに眺めた。
翌日の観光の事を考えると眠らざるを得ない。パーク・イン・プリバルティスカヤホテルには遮光カーテンは付いていない。遮光どころか透けるような生地に美しい大きなピンクの花柄カーテンが掛かっていた。現地人は白夜に慣れているというが、日本人の私は22日1時半にアイマスクをかけて眠った。


22日=サンクト・ペテルブルク観光(歴史地区は世界遺産
サンクトペテルブルクはロシアの北西端にある緑の多い美しい町で、市内をネヴァ川が流れ運河もある。ネヴァとはフィンランド語で「泥」という意味だそうだ。18世紀初めにピヨートル大帝がスウェーデンから奪取した地、ネヴァ川の文字通り湿地に運河を掘り、橋を掛け、道路を造り、宮殿や寺院を建設して都を創り上げた後に、首都をモスクワから移した。夜はインペリアル劇場でバレエ「白鳥の湖」を鑑賞したが、ストーリーはハッピーエンドにしてあった。私達も旅の疲れから、顔は前を向いているものの
時々、コクリコクリとハッピーだった!22時半に終演したが、いつもの感覚で夜を想定して劇場外に出て驚いた。外はまだ強い日差しがありその明るさに、「白夜」をまた改めて実感した。宿泊したホテルは食堂が2階になっていて、夕食や朝食は階段を上って行かなくてはいけない。80歳のご婦人たちは、手すりに掴まりながらもお元気だった。別の場所での昼食時には、ビールのジョッキを片手にテーブルの仲間5人で共に「乾杯!」をしておられた。

この日の見学先
・聖イサク寺院:黄金のドームを持つ高さ101mの塔。ピヨートル大帝の
市内最大教会で今は博物館
・デカブリスト広場にあるピヨートル大帝の「青銅の騎士像(命名は詩人の
プーシキン)」。
・血の教会:皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたその場に25年もの歳月
をかけて20世紀初に建てられた純ロシア風建築のあのネギ坊主頭の色
の洪水の教会。材料は、モザイクや彩色タイル・七宝タイル・大理石とい
う。
本来なら川底になってしまうその暗殺場所を正確に確保して建てられたこ
の教会は、隣を流れる真っすぐな川をもここだけは急に川幅を狭くさせて
いた。
・国立ロシア美術館:東京上野で開催中のこの美術展で予習学習をしての
本場訪問。名画と云われる作品の数々が日本に貸し出されていたのも実
証できた。上野で見た傑作の絵葉書が上野では買えずにここロシアでは
購入する事が出来たのだ。
・エカテリーナ宮殿:全長310mのロシアバロック調の華麗な宮殿で、青
い塗装の涼やかさと黄金の装飾が輝く外観にまず目を奪われた。美しい!
ブルーの不織布の靴カバーをそれぞれが履いて中へ。美しい天井画の大
広間は長さ47m幅17mあり、井上靖の小説の大黒屋光太夫がエカテ
リーナ2世に謁見した場所だと云う。眩いばかりの琥珀の間を見てもだ
んだん溜め息は出なくなった。


23日=今日は一番の目玉でかつ愉しみにしていたエルミタージュ美術館
宮殿広場では、海軍の卒業式の式典が執り行われる時間だった。学生は整列し始め家族や恋人たちは柵囲いの外に詰めていた。ブラスバンドはそれ以前から式典を盛り上げるために演奏を続けていた。それを眺めていたが時間が来たので入館した。まばゆいホールが連なるこの宮殿はロシア皇帝の住まいだった。
エカテリーナ2世のコレクションを展示したのが始まりで、エルミタージュとは「隠れ家」を表すフランス語で20世紀初めに一般公開されるまでは、エカテリーナ2世専用の美術品収集の館だったための命名だそうだ。300万点を超えると云われる収蔵品は、団体旅行の限定された3時間では到底鑑賞し切れない。好きなマチスのダンスの絵の前で撮って貰った写真(添付)がこの旅行写真の中で一番大切なものになった。この間わずか2〜3秒の出来事だった。
傍近くにいたロシア老人と孫娘たちと曾孫だろうか、その老人も絵の前で踊るポーズをしていたら、孫娘は笑いながらシャッターを押していた。この絵にはやはりそんな魅力も潜んでいるのだろうか。ピヨートル大帝夏の宮殿へ。フィンランド湾を見下ろす所に建てられた宮殿からは、真っすぐ運河で湾へ続いている(写真)。数々の噴水と金ピカの彫像群は20世紀末に大修復されてまだ新しい。今は憩いの場所となっていて、大勢の市民と観光客でごった返していた。 混雑するところには当然ながらスリもいる。添乗員のHさんが、ショルダーバッグを前に、荷物を脇にといちいち注意して回っていた。
  
・話題を提供して下さった戸倉さんは私の高校の先輩で、姉と同級生。



◆今月の隆眼−古磯隆生

−東京下町散策…千駄木

千駄木は谷中、根津に比べればさほど面白さはないよ…下町に興味をお持ちの方々からこのような話をききます。
梅雨の明けた8月初旬、強い日差しの中を千駄木散策に出掛けました。地下鉄千代田線の千駄木駅下車。地下から階段を上がって出たそこは<しのばず通り>。右に行こうか左にしようかとうろうろしてるとコーヒー店が目に入りました。この暑さだ、まずは冷たいコーヒーでも飲んで向かう方向を決めるか…と焙煎されたコーヒーの香りに誘われて入ったのが「やなか珈琲店」。コーヒー一杯150円なり!
方向を定めていざ出陣です。団子坂で程なく「鮹めし三忠」の看板が目につく。丁度昼飯時、ここは腹ごしらえに限る。食事も終わって散策開始。下町と言われるところは名前の面白い坂道が多い。<団子坂>に始まって、<大給(おぎゅう)坂>、<狸坂>、<きつね坂>、<むじな坂>… この名前の謂われをたどるのもまた面白そうです。しかし、谷中、根津に比べるとなにがしか雰囲気が違います。しのばず通り沿いは下町らしさが漂っていますが、坂を上がればそこはりっぱな住宅街。下町の雰囲気はみじんもありませんでした。それでも昭和の初期と思われる住宅が少し残っていて目を楽しませてくれました。
谷根千(やねせん)」と呼ばれる下町地域をこの間散策してきました。確かに、店作りや住まい方に下町らしさ(人情に関しては散策だけではやはりわかりません)を垣間見ることはできましたが、街並みの観点から言いますと、残念ながら良くありません(…直接的には住宅メーカーにもの申したい!)。
街並み作りの日本人のセンスは劣化してきてるようです。それは、最近の日本人の想像力の欠如に通底しているように感じます。人間に対しても、生物に対しても、街並みに対しても、環境に対しても。
経済効率優先の社会構造は分業制を生みました。一方でそれは人の社会との関わり方のトータィティーを喪失させる契機にもなったと思われます。仕事人としての自己と家庭人としての自己の分裂症を発生させました。
下町の面白さは1回こっきりの散策ではわかるはずもなく、いずれまた谷中、根津を散策してみようと思っています。
そう言えば、先日たまたまある店で江戸弁を聞きました。最初はヤーさんめいた方かな?と思って聞いてましたが、まくし立てるしゃべり方にそれが江戸弁だよって店の亭主がおしえてくれました。


◆今月の山中事情23−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

ふと聞こえてきた、「早く寝なさい!」と。そう言えばずい分歳を重ねてからも、親はおろか、他のいろいろの人にそう言われてきたように思う。その昔「人生五十年」と言われていた時代があった。今と違って、夜遅くまで仕事をすることもなかった時代だ。そうすると、単純に計算するとその半分は寝ていたかも知れない。つまり二十五年間はその間に起きた事柄を知らずに寝ていたことになる。何と呑気な時代であったことだろう。我々の子供の頃もしかりであった。メディアが皆無に等しかった時代であったゆえ、本を読むか(マンガ?)勉強(?)でもしていなければ、それこそ夕食を終えたらすぐ「寝なさい」と言われた。街には子供の行ける所など当然無かった。成長するにつれ複雑な世の中を識ることになり、子供の目から大人の視点で物事をみることになって行き、いつの間にか「早く寝る」ことは出来なくなっていた。おそらく、一人暮らしとなり、誰も「早く寝なさい」と言ってくれる人が居ないのもその原因の一つであろう。
「早く寝る」ことは心身の鍛練の源である。肉体を休め、健全な精神を養うための所業だ。「寝る」ことを惜しんでまで何かをする必要は生理学上意味のないことである。健全な生活を営もうと思う人あらば、陽が昇る頃に仕事に出、陽が落ちる頃に仕事を終える。ひと風呂浴びて、夕餉をいただき、万物の法則に従って今日という一日を終える。これが理想的だ。
嘗ては当たり前の就労の型であった(私などはまさにそんな生活をしている)。現代社会は「早く寝る」ことを放棄した。放棄と言うより、夜も昼もない社会になった。健全でない精神と肉体の持ち主でこの世が構成されているようだ。理解出来ない事件や事故がひっきりなしに起きているのも、もしかしたら「早く寝ない」からかも知れない(バンソコの王子もそうです)。
寝ない人間があちこちで私の寝ている間に悪巧みをしているのではないかと気が気でならない。その人達に「早く寝なさい!!」と言ってやりたい。