★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.131

秋真っ盛りです。
昨日・今日と小学時代の友達13名が白州を訪れてくれました。
我が家で、私の作るカレーを堪能??し、秋の八ヶ岳を堪能して、先程帰途につきました。

先日、庭でバーベキューをしている時、私の座っていたベンチの板の裏側にカマキリが寄ってきました。よく見ると、これは産卵しているのでは?と思われます。珍しいので写真を貼付します。

さて、日展問題。やっと表に出たかとの思いです(美術界では常識だったらしい)。
他の分野でも同じようなことがあるのでは?と思わせます。
変わってほしいものが変わらず、変わってほしくないことが変わる。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.131》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−寄り道のすすめ−

この世に産まれ出るときからすでに目的を担わされている人もいれば、不幸を背負わされて産まれてくる人も確かにある。しかし、はじめから落語家になりたいと思って生まれてくる人もいないだろうし、ましてや大泥棒志望の新生児などいるはずもない。ごく普通に考えれば、生れ落ちた家庭環境、その家族がいる社会や文化環境、そのときの世界の情勢などもろもろの条件が折り重なって、その赤ちゃんの将来に大きく影響していくことになる。無数の偶然と少数の意図的条件が作用して子供の人生を育んでいくわけだ。
与えられた生活環境を建設的に最大限に活用しながら、周りの人のためになるように努めることが、結局は本人のためになり、その経過や結果から本人が行きたい方向を見つけ出していく、それこそが全ての乳幼児を抱く家庭や社会に与えられた課題であろう。しかしよく考えてみると、これは新生児だけではなく誰にでも当てはまる人生の処世訓のような気もする。要するに本人と周りの環境との協調関係を築き上げることをいっているので、安部首相のいう互恵関係と同じようなことである。Give もあればTake もあるのが互恵関係であるから、本人が環境に与えるものがなければ環境からの見返りもないと考えて差し支えないだろう。
と、まあ七面倒臭いことを色々といったが、実は一つ重要なことを意図的に抜かしてある。それは互恵関係を築く過程で、「効率」についてわざわざ述べなかった。互恵関係では人と人との「信頼関係」が重要な必要条件となり、「効率」と言う近代的な考え方は往々にして否定的に作用することがあるからでだ。時間がかかっても信頼できる人と協力して、目的を共有し、結果も分け合う(相互互恵)と言う事が大切なのだ。「結果」を量に例えるなら「信頼」はむしろ質といえよう。良質な目的を共有しながら良質な結果を目指すための
「信頼」の構築が大切なのだ。
人は順風満帆のときには良質に見えても、いざ落ち目になると失望させられる場合がしばしばである。人間の質、奥深さ、包容力など信頼の中身は、失敗と成功を繰り返して行くうちに次第に育まれていくようだ。特に何度も失敗から立ち直ることを経験した人は、それだけ信頼に値するし、協力関係を結ぶに足りる人に成長していく。こういう形の信頼は効率の良い短距離訓練ではなかなか得られない。要するに「寄り道」をしながら成長していくことによって、次第に自信を得て、その結果他人を信用できるようになるようだ。これこそが真の「ゆとり教育」でり、時間と手間暇のかかる作業である。日本人は「急がば回れ」と巧いことをいったものだ。要するに人生とは「散歩」のようなもので、教育の真髄もこの詩や散文のような「散歩」の中に見つけることができる。私は走る散歩「散走」を毎日のようにしている。そのときの気分と調子に合わせて好きなルートを撰んで走る。スピードは歩く早さから力走までその日の調子で自然にきまる。ゆっくり歩けば地面の細かい亀裂から虫の動きまで見え、建築でいえば詳細の美しさが伺え、また早く走れば町並みや湖に映る雄大な森の姿や夕焼けを楽しめる。これは私の散策の仕方であるが、人はそれぞれの方法で散策して楽しみを見出し、「寄り道」の効果を満喫すればよい。振り返ってみると、「散走」がそのまま私の人生になっているようだ。それを私はよかったと思っている。私と協調してくれている家内には大いに感謝しているが、迷惑をかけているのではないかと少し心配している。でもよき相棒として楽しんでくれているように伺えるのだが。
2013年10月27日土曜日 静かなクレムソンの週末  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−移住生活・その15−

紅葉の季節になりました。白州近辺は秋真っ盛りと言ったところです。毎年、神代桜をメインに春の桜巡り、秋は八ヶ岳の標高1、400m前後のところの紅葉巡りが我が家の恒例となりました。八ヶ岳周辺はどちらかと言えば黄葉が主体です。中でもカラマツの黄葉は“黄”の醸し出す世界を存分に堪能させてくれます。年毎のそれぞれの季節の変化を目で楽しむ時間です。

移住5年目にして初めて、我が家から10分程のところにある尾白川の渓谷トレッキングコースに挑戦してきました。南アルプス甲斐駒ヶ岳を源とする清流・尾白川渓谷の評判は聞いていたのですが、山登りにそれ程興味をいだかない私は敢えて無視を決め込んで来ました。が、知人・友人の来訪の機会が増えてくるようになっては、「行ったことありません」、「見たことありません」では済まされなくなった事情(?)もあり、こちらで出来た友人夫妻に連れて行って貰うことになりました。

竹宇駒ヶ岳神社の脇の吊り橋からコースに入りますが、途中から準登山コースになるアップダウンの激しい、危険な箇所も多いコース(毎年、滑落死が出る)で、途中にある神蛇滝(じんじゃたき)までの往復3時間半程のトレッキングを楽しんで来ました。
千ヶ淵、旭滝、百合ヶ淵、神蛇滝(最後は不動滝ですが、今回は行きませんでした)。様々な淵や滝と紅葉を堪能する刺激的な時空を経験することが出来ました(写真貼付)。
前日の風雨がウソのような絶好の秋日和に恵まれての出発でした。友人の先導でトレッキング開始。雲ひとつ無い青空を背景に真っ盛りの紅葉と透き通った清流が我々を迎えてくれました。時折一休みして紅葉を満喫しながら、淵や滝を目指して黙々と歩きます。チェーンを頼りの細い岩道があったかと思うと何のガードもない狭い山道。鉄製の渡りや自然が作った木の根っこによる階段、などなど。滑落すれば間違いなくアウトと気を引き締めながら歩を進めます。
アップ アンド ダウン、アップ アンド ダウン、…。先導者の熊よけの鈴の音が一定のリズムを刻み、足下の落葉のカシャカシャという音、渓流のせせらぐ音、これらが楽しく絡み合い渓谷歩きに調子を与えてくれます。時折吹く風に、黄葉した葉が陽を受けてキラキラ舞い落ちて来ます。
何とも言いようのない、何と表現して良いのやら…、自然の奏でる無音のメロディーが支配し、光が舞う…そんな空間を浮遊している感覚です。
小鳥の囀りも耳にします。限りなく五感を刺激してくれる時間帯でした。

東京・三鷹市にあるICU(国際基督教大学)のキャンパスは極上の紅葉風景を展開してくれますが、それとは又違った極上の紅葉空間を展開していました。
お薦めの場所です。


◆今月の山中事情91回−榎本久・宇ぜん亭主

−夕陽−

夕陽を見るとどんな感情を持つであろうか?希望に燃える感情、勇気を得た感情、せつなくなる感情、悲しくなる感情、ひたすら美しいと思う感情など、幾多の感情が現れる。人生でも置かれた立場でそれを見る感情は違う。私はこれまでいろいろな所に住まいを代えた。そこで見た夕陽はいずれも「ここで生きて行けるのであろうか」と一抹の不安を持って見たものだ。若い時は若いなりに、働き盛りの時はそれなりに、そして今とて美しいと思える感情だけでなく、心奥には何か暗いものを見たように思うのである。夕陽のはかなさと己の年齢とが重なったからか。入院中は素直ではなかった。そこで見た夕陽は誠に複雑で、希望なのか不安なのか見定めることが出来なかった。夕陽は又、信仰の対象でもある。手の届かないものへの畏れと祈りや感謝の対象だ。単なる自然現象に対し、人間の敬虔なる感情がそれを増幅させ、夕陽は全く別の存在のようになっている。西の方に極楽(西方浄土)があるとの教えは夕陽と重なり、それを抜きにしては考えられないであろう。太陽の大きさは一定の筈だが、地球に空気があることによって、あたかも大きくなったり、変形したり、色が違ったりする現象が起こる。それは人も心の持ち方でそのように見えるらしい。
猿も夕陽をながめているとか。日本モンキーセンターにいる猿達は、人間が持つそれとは別に、夕陽にほのかな暖かさを感じ、夕陽を見つめているがごとく一斉に高い所に登り、西の方を向いているとか、テレビが報じていた。
かつて私は「日輪」の題でそれを描写していた。

   日 輪

夕刻
西の空を燃やし尽くして
姿を隠した巨大な火の塊

今度は東の空を燃やしながら
姿を現した
何十億年も繰返される
古代より全ての生き物が
見つめて来た
一大スペクタクル


宇ぜんホームページ
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