★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.170

立春はすぎましたが・・・・昨日の白州は雪でした。まだまだ寒い。(写真貼付)

トランプ米大統領の“独善”に世界が困惑。


展覧会が近づきましたので再度のご紹介です。
共に出品しますので、ご都合のつく方、是非ご覧いただければと思います。

●第48回行動美術新人選抜展
・日時:2017年2月23日(木)〜2月28日(火)
     9:30〜17:30(最終日は15:00まで)
 ・場所:東京都美術館(1階 第3、第4展示室)
     台東区上野公園8-36
tel.03-3823-6921
*私は以下の時間は会場に居ます。
  ・2/23(木)  13:00〜17:30
  
●第6回 WORK TEN(行動出品者10人展)
 ・日時:2017年2月25日(土)〜3月2日(木)
     12:00〜19:00(日曜日、最終日は17:00まで)
 ・場所:ギャラリー風
     中央区銀座8-12-13 豊川ビル4階 tel.03-6226-2797

 *私は以下の時間に会場に居ます。
  ・2/25(土)  13:00〜19:00
  ・3/2(木)  13:00〜17:00


では《Ryuの目・Ⅱ−no.170》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−芸術と著作権

芸術作品に関する著作権とは何であろうか。芸術作品の偽造とか、赤の他人が芸術家の作品を拝借して金儲けをするならば、確かに芸術作品のオリジナリティや芸術家の創造性などの所有権を守るための法律が必要になってくる。ラジオやパチンコ店から流れ出る音楽は、放送局やパチンコ店に利益をもたらすであろうから、著作権を払う必要がある、のは理解できる。カラオケやフィットネスもこの部類に入るといわれれば、そうかと思う。
しかしである。音楽学校や音楽教室での「練習」に同じ法律を適応する、といわれたら、目をパチクリさすのは私だけではないだろう。文化啓蒙的に観て、もってのほかである、と言いたくなる。音楽の「練習」に著作権使用費を払わせる考えに至った組織や団体を、非文化的で非教育的であると非難したくなる。
この調子でいくと、間もなく、散歩をしながら鼻歌も歌えなくなるではないか、と末恐ろしくなってくる。
原則論で言えば、著作権法はない方が良いのだ。これは「芸術は皆の物である」と言う考え方に基ずいている。しかし、この世知が無い世の中には悪い奴もいるから、芸術家を守る必要が出てくる。その悪い奴らの手の届かないところで行なわれている、芸術の楽しみや啓蒙教育活動は、逆に著作権協会による規則の乱用から守られなくてはならなくなりそうだ。芸術の楽しみや啓蒙教育活動は、そもそも芸術が存在する理由そのものであるから、当然守らなければならない。
芸術を金儲けのためだけに利用してはいけないと、いっていたはずの著作権協会自身が金儲けのためだけに法律を乱用すれば、悪い奴らと同じ「むじな」ではないか。
2月2日のデジタル版朝日新聞によると、日本著作権協会の年収が数千億円と聞く。勿論この収入は全て、守られるべき芸術家の懐へ入るはずである。さもなければ詐欺行為になる。では、金儲けのために芸術を無料で利用してはいけない、と謳っていた著作権協会自信が法律を盾にして、芸術の啓蒙や教育に従事する組織から芸術の使用費を取るとなると、背信行為に近くなるのではないだろうか。詐欺的ですらある。
歴史的にみて、芸術は常に存在して来た。文化的生活の質を上げるために必要であったからだ。大伽藍、、音楽堂、美術館、本屋、その他芸術を大衆に供給する手段は、常に守られてきた。現代の著作権協会が、本来芸術を享受すべき大衆を悪い奴等から守る旗手であると言うならば、それを実現する方法や手段を編み出してもらいたい。
一方、産業における技術開発による利益は、常にパテントで保護され得る。当然各企業は熾烈な技術の発明競争を行なうことになる。著作権によって発明者の権利と企業の利益は保護されるが、より大きな視点から眺めれば、競争によって重複する発明や発見が多く行なわれて、全体的なエネルギー(開発費、頭脳、コラボレーション)の観点からは無駄が増え、効率的でなくなる。資源の浪費にも繋がってくる。究極的な利益の受給者は、消費者である一般大衆だ。
芸術の場合と同じである。
芸術も技術も最終的には、一般大衆が利益受給者であり、守られなければならない対象なのである。
ここまで来るとはっきりしてくる。著作権協会が究極的に守らなければならない対象は一般大衆なのである。著作権協会は、この点を肝に銘じて考え行動してもらいたい。
最後に、金銭と離れて、もうこれ以上は譲れない、と言う段階での人間の価値、誇り、尊厳などを守ることに関しても、著作権協会は貢献出来る筈なので、この方面での活躍も大いに期待したい。

2017年2月2日 トランプ政権の暴走が垣間見える木曜日の午後。
クレムソン大学名誉教授 岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−ある出会い・高橋節郎−

文化勲章受賞のこの高名な漆芸家、私は恥ずかしながら実は名前さえ知りませんでした。そんな先入観の全くない中での作品との出会いでした。
昨年の11月末、晩秋と言うか、秋らしい秋を感じないまま冬に突入しようとしている時期、長野の安曇野の友人を訪ねて、家族で伺いました。家族で会ったのは15年ほど前になります。当時は未だお互いに東京住まいで、たまに食事などしていましたが、家族ぐるみとしては軽井沢で一緒に過ごしたのが初めてで、とても楽しい時を過ごしました。そんな楽しかった記憶がお互いに残っていて、久し振りに会うことになりました。
その安曇野の友人宅での夕食時の様々な会話の中で、安曇野出身の芸術家の話になり、その作品集を見せられました。“高橋節郎”・・・私は諸作家のことに疎いので名前を聞いてもピンとはきません。が・・・作家についての説明書きには目もくれずに作品集を開いてめくっているうちに、次第に作品写真に目が釘付けになり、じーっと見入っていました。作品の構想が何とも素晴らしい!!
どうやら漆を使ってるらしいことがわかりました。
これは何としてでも観てみたい。翌日、早速、「安曇野高橋節郎記念美術館」に出向きました。田園風景の中に建つモダンでシンプルな美術館です。

高橋節郎(1914〜2007)は画家志望として芸大に入学しましたが、絵では食えないからと父親の反対に遭い、やむなく工芸科に進んだ彼は、そこで漆と出会うことになります。卒業後はデザインの仕事をしてたようですが、絵を描くことを捨てきれない彼は漆を使って絵を描くことを始めました。
日曜日にもかかわらず、館内は私ひとり。空間を独占して作品と対峙することができました。
黒漆をベースにした上に金箔を載せて作品が作られています。幾何学模様を使った天空の表現、様々な“デフォルメ”による構成は別次元の世界を創出しています。
これこそ創作家の為すべきことではないだろうかとつくづく感心させられました。
少し解かりづらい表現ですが、「多くの画家はその思いを絵を描いて表現していますが、二次元の平面の上に“新たな世界”を創出させる画家は少ない」。常々こう感じていた私ですが、高橋節郎は漆の板に、まさに、“世界を創出”させていました。その表現は平面だけに留まらず、漆塗りの彫刻へも及んでいました。
この作家の内面世界は、山々に囲まれた生まれ故郷の安曇野、そこで育まれた自然への想いや畏れを内に、宇宙へと拡がって行った様が感じ取れます。
壮大な世界が表現されていました。
日本に、漆芸家でこれ程の世界を表出していた人がいたんだと改めて“出会い”の大きさを感じさせられ、大いなる刺激を受けることになりました。
機会があれば是非ご覧になるといいと思います。

安曇野高橋節郎記念美術館:長野県安曇野市穂高穂高408
tel.0263-81-3030
http://www.city.azumino.nagano.jp/site/setsuro-muse/


◆今月の山中事情130回−榎本久・宇ぜん亭主

泌尿器科騒動記−

前立腺肥大と言われて以来一年半。三ヶ月に一度検診に行っている。同じ頃緑内障とも言われた。こちらは二ヶ月に一度だ。身体の部品が壊れ始めるのは仕方がないと妙に納得し、めんどうと思いながらも通院している。前立腺の方は診察まで私なりにルーティンがある。採尿があるので家での尿意をことごとく排出するわけには行かず、その辺の調整が難しい。
本年第一回は一月十六日だった。外はやけに冷えていた。病院で受診の手続きをとり、「採尿」のための書類を窓口の箱の中に納めた。だいたいこのテンポで行けば数分で呼ばれるのがこれまでの常だった。この窓口は「採血」も扱っていて、いつもより待合室は多かった。数分はあっという間に過ぎていたが、いつものようではない。まだ呼ばれない。冷えが膀胱に影響を与えたのか調節してきた筈が、やたらと下腹部が気ぜわしい。 しかしここでトイレに行くわけには行かない。だからといって半分だけとも行かない。いつものテンポが狂っている。まだ呼ばれない。ずい分時は経ったが、ナースが行ったり来たりしているだけだ。しかし、ルールを破るわけには行かない。横槍を入れてナースの仕事の段取りを狂わすわけには行かないからだ。変に紳士ぶったりする考えが脳裏をかすめる。そんなことを逡巡するが、尻はうずいて時折ビニール張りの椅子をキュッ、キュッと鳴らす。もう一つの考えがもたげて来た。「出もの、腫れもの所かまわず」だ。がまんばかりが美徳ではないという考えと交差する。

待つという行為の苦行を強いられている。ナースの一挙手一投足を凝視している。患者番号と名を聞き逃さんとばかりに耳をそば立てている。前回まではもっと余裕をもってこの椅子に座っていたものを、一体今日はなんだ。下腹部のうずきが極に達した。遂に私はルールを無視して、やおら立ち上がりナースに「洩れそうだ」と言った。採尿カップはすぐに手渡された。どうやら私の前までの患者に泌尿器科の患者は居なかったのである。
そのあとの行動はどなたも理解出来ると思う。やっと用を足すことが出来、あの解放感を得たことがである。
ようやくそれらを終え、医師の診察を受けるべく平静になって待合室に着き時計を見た。一連の行為は全部で三十分にも満たなかったのである。人間は切羽詰まるとこのようにものごとを大袈裟に考える生き物だった。
今のところどちらの病気も進行はしておらず、問題はないと言われている。
しかし生涯来て下さいと言われているのが合点が行かない。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「戯」です。
  サイズは18.2cm×25.7cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。