★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.179

秋真っ盛り。
先日、我が家の近くの日向山(標高1,660m)に登ってきました。
通常は、我が家から車で15分ほどの矢立石登山口まで林道を行き、そこから上り始めるのですが、この日はその林道が土砂崩れで通行不可。
やむなく尾白川渓谷沿の竹宇駒ヶ岳神社の登山口から入りました。
標高差900m、結構ハードな登山になりました。往復6時間!!膝ガタガタ。
頂上近辺は秋、秋、秋でした。
頂上からの眺めを添付します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.179》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          以前いただいていた話題です。

−エネルギーと産業と人口、文化と文明と幸福、競争とエゴと民主主義−

理論や思考の展開に費やされるエネルギーとその内容をリスクを伴う投資として考えると、当然見返りを期待したくなる。日曜日の午後をこの展開に使うにはもってこいだ。
現在から未来へ向けての人類の平和を考える時、人は上記タイトルが示唆する相互関係について何らかの思考を巡らさざるを得ないだろう。この中でたとえどの言葉の定義や関係に手を入れるにしても他の言葉の協力が必要になってくる。要するにそれぞれ相関関係にあることが分かってくる。数学の函数に似ている。その中に横たわるかもしれない政治の問題、宗教の問題、経済の問題、教育の問題、質の問題など、どれ一つを取ってみても表題が抱えている問題の複雑さや不明瞭さに突き当たる。一つだけ解決しても問題の本質に迫れないので総合的なアプローチが必要になってくる、ということだ。
例えば、産業界では殆どの場合、世界規模の競争をしていてそれをサポートするエネルギーと資源は人口の増加を許しているというよりは奨励しているかのようだ。しかし地球が十分なエネルギー資源を供給できなくなって悲鳴を上げているのというのに、人は聞こえない振りをしている。何故だろうか。人類の文明はその程度のなのかと気付き、情けなくなってくる。いや、頭脳明晰なる民間人は多くいるのだが、その優秀なる人達の示唆に溢れる文明評論に耳と傾けようとするほどの優秀な政治家がいない、ということなのだろう。有能な人材が政治的指導者にならないのだ。いや、なりたがらないのだ。あたかも自嘲したかのように尻をまくって、私はドジョウだといってその言葉の後ろに隠れてはみたが、所詮ドジョウはドジョウでしかなかった、と自他共に気が付いたようだ。

あらゆる簡便さへの貪欲なる追求が創造性に支えられた技術の急速な発達を促し、その結果として発展して来た現代文明を、人類はいま制御できなくなってきている。しかし皮肉なことに、この制御技術こそが電子技術の最先端部門であり現在正に経済の中心的存在になっている。この状態を通して将来を透かしてみるとき、恐怖心に襲われることがある。
一方では、歴史の中に置き忘れてきたかのような宗教が、すなわち、論理の届かない信仰の世界が紛争の原因となり、大規模な殺戮が繰り返されているのが現実だ。幸福への道が平和の追求と考えられているうちはまだ良かったが、幸福と平和が同義語のように近ずき、いつの間にか平和なら幸福だ、と言うような単細胞的で幼稚な論理がまかり通る段階へきてしまったようだ。恐らくはこの幼稚さが故に、幸福という一番大切な概念や具体的な目票が教育の実践に反映されていない、というが甚だ困った状態を導きだしてきているのが現在の教育界である。教育者が質の低い政治家とおなじような間違えを繰り返しているような気がしてならない。しかもその教育者や政治家が後生大事に推進してきた民主主義の、その第一義でるはずの「機会均等」が、競争とエゴ問題の狭間で公正である筈の競争が必ずしも公正になり得ない状態を露呈している。
アメリカ式民主主義はこの弱点に気が付いているようだが、次の来るべき主義や方法を打ち出せずにいる。まだ新(民主)主義を生みだすための必要性を十分痛感していないのだろう。幸か不幸か日本にはアメリカ式民主主義はまだ根付いていないので、日本に適した新しい主義を構築したらどうであろうか。

歴史上一番長続きしたといわれるローマ文明でも、論理と同居できない宗教によって崩壊してしまった。現代のEUでは、歴史、文化、宗教には手を触れず、主に経済でヨーロッパを結びつけようとしている。これに軍隊が加わればローマ帝国と似てくる。ローマ帝国の敵は初めはアラブとゲルマンであった。現在のEUでは、USA、中国、インドなどの人口大国が経済競争相手として控えていて、そのどれをとってもEUよりも大きいのである。よってEUは地球規模の資源の枯渇に対する余裕があまり無く、競争という挑戦に勝つためには何でもする状態にいる。今アメリカの大統領選挙間近かで、立候補者の演説がさかんであるが、その焦点は経済問題である。選挙民は地球資源や人口過多を問題に聞く耳をもたないので、失業率や経済開発がその議論の中心になり、如何に資源を有効に利用して生産を増やし製品を売りまくって雇用を増やし、と言う議論である。嗚呼!
他の惑星を探し、生命の起源を考えたりするのはよい。しかし地球がもうパンク寸前となり、駄目になってきたので逃げ出し、他の資源豊かな惑星へ行って、そこをほじくり返して汚染して、又どこかを探そう、と言うようなとんでもなく無責任な考えが、見え隠れしているので、これが逆に人類の地球に対する浅はかな考えを露呈している形になっている。全く末恐ろしい。文明が作り出している大量の廃棄物を、地球上では埋めるところが無くなったり、遂には宇宙に捨てたらどうかと言うような無法な意見まで出るにいたっては、上の私の危惧は、現実性をおびてくるいっぽうである。嗚呼!

膨大な負債を抱えた日本やアメリカでよく聞く言葉が「我々のツケを次世代に負わせたくない」というものだ。現在の負債は現在の我々が始末する、ことから目を背けてはならない。当たり前である。負債を支払うのは、将来の世代に迷惑をかけたくないから。ではない!こんな屁理屈を平気で話す政治家や学者には、その場でその無責任さを謝罪して即刻辞任してもらいたい。正直いって、このようなことを平然と公衆の面前で表明させている公衆(市民)にも問題がある。「自分のツケを自分で支払わなくてもよい」と示唆するようなどんな表現も許されるべきではない。選挙民はそのような出鱈目な思考と道徳を許してはならない。当たり前である。

今朝走っていると上空100メートルぐらいのところで鷹が旋回しているのがみえた。そして100メートルぐらいその上にもう一羽が輪を描いていた。走るのを止めて上空を更によく見ると、何ともう一羽が更にその上空100メートルぐらいのところをゆっくりと浮かぶように回っているではないか。三羽の鷹が重なるようにまるでシンクロナイズッド空中遊泳しているように優雅に秋の空を楽しんでいた。これが偶然とは思えない。彼らは家族か友達か、とにかく親しいなかなのだろうと想像してみた。目に見えない階段があり、それをゆっくりと上昇しているかのようであった。または、一羽が300メートルにわたる巨大な蚊柱を発見して親友を集めてきて、昼食会でもしていたのだろうか。
鷹は猛禽類なので蚊は食べないかもしれない。でも私を優雅な思考に導いてくれた。鷹君たちよ、ありがとう。
考えてみると、鷹は飛べなくなると一生の終わりである。他の動物も大体そのようである。しかし人間は動けなくなってから10年も生きている場合も珍しくは無い。人間は種としての動物ではなくなったのだろうか。どうりで人間は、自然のサイクルを狂わせて、自身も自然のサイクルから離れて、廃棄物を山のように吐き出し、自分の汚物の処理もできなくなりつつある筈だ。動物のようにもう一度自然循環の輪の中に入り、謙虚になって来し方行く方を大きなスケールで省みて、本来の人間としてあるべき姿とは何なのか、を考えてみる必要がありそうだ。文明もよい、民主主義もよい、自由競争もよい、エゴもよい、え!そうだろうか。動物には文明も民主主義も自由競争もないはずだ。では、エゴはどうであろうか。恐らくはエゴをエゴと意識することなく考えて行動に移し、自然のサイクルを満足させているのだと想像する。
人間はみなエゴの塊であるが、道徳や常識や法律を打ち立てて、エゴによる摩擦を解消しようとしてきた。時々我慢ができなくなり喧嘩や大量殺戮を起こしてはいるが。今も中近東では大変きな臭い雰囲気が漂っている。エゴのぶつかりあいだ。Life of Pyeという小説が映画化されたらしいが、動物の中で一番恐ろしく、野蛮で、醜い人間と動物園にいたトラとの話である。全く面白い内容だ。
ここにエネルギーと文明とエゴが相互に関係している様を少し観察してみたが、私の常識では、人類の将来は、地球上に生息する幾多の生物のなかで、人間としての本来の役目は何なのであろうか、を追求するところからしか救いは無いように思える。私は毎日ランニングするたびに、これが他人の役に立たないものだろうか、と、つい考えてしまう。こんなに楽しいものが、楽しみだけで終わってしまっては申し訳ないような気がするのである。

2012年11月18日、日曜日 自然と一対となる瞬間を楽しむ元気な老人
                                      岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 美術館/ぶらっと村山 −

この10月は二度ほど山形県に行きました。今回の“ぶらっと”も山形の内陸で、天童より少し北にある村山市。超大型台風が日本を縦断するという予報のもと、夜11時過ぎに我が家を出発。雨の中を車で山形に向かいました。
我が家から北東方向に向かうルートで、秩父、熊谷を抜けて羽生ICまで一般道を行きます。秩父雁坂トンネルを抜け、暗闇の山中をくねくねとひたすら走り羽生ICを目指します。羽生からは東北自動車道で福島飯坂ICまで行き、福島飯坂からまた一般道で米沢を通って昼前には村山市に入りました。途中、東北自動車道のPAでの仮眠を含めておよそ12時間のドライブ。

村山市では3時間ほどの時間があったのでネットでみつけた美術館に行くことにしました。台風の影響でそれなりに雨が降っていましたので、天童の時のように自転車でぶらぶらと言う訳には行きません。車のナビに導かれて中
心街から離れること15分ほど、田畑を抜け、曲がりくねった道を進んで小高い丘に。
十数年前に出来たという最上川美術館に行きました。こぢんまりとした美術館です。台風予報下の雨の日曜日でしたのでさぞかしガランとしてるだろうと思いきや、駐車場には多くの車。聞けば、この日は室内コンサートが開かれることになっているとか。場所と展示作品の情報だけ見て来てしまったことに我ながら苦笑い。

この建物は「最上川美術館・真下慶治記念館」が正式名称のようで、真下慶治常設展示室のある棟と多目的・企画展示室のある棟がラウンジを挟んでV字型に設けられています。地元出身画家の作品展示と、様々な展示やイベントなどが行えるようにと計画された施設です。地方における美術館の一つのあり方と思いました。
コンクリート造と木造のシンプルでしゃれた作りの建物は最上川を見下ろす高台にあり、辺りの風景に溶け込むかのような佇まい。自己主張を抑えた好感の持てる建物です。さりげないエントランスから廊下伝いに受付があり、その前を通り抜けると左側に、そこからの眺めを存分に取り込もうとする設計者の意図が明確に伝わってくるラウンジが設けてあり、最上川への素晴らしい眺望が飛び込んできます。(写真添付)

誰が設計したのだろうかと思い、受付に戻って資料をもらうと・・・・設計者は個人的によく知ってる地元出身の建築家でした。丹下健三事務所時代の先輩で、当時は頻繁に飲みながらさまざまに建築の話をよくしたものでした。
当時は深夜まで仕事をし、それから飲みに出かけるという日々でした。懐かしさが蘇り、ラウンジからの最上川を眺めながら、時の経過を忘れてしばし、当時の様々な出来事に想いを馳せ、時を過ごしました。
その後展示品の鑑賞を終えてからは否応なく建物の細部に目が行き、設計者の思いを追想しながら、こういう意図でこうしたんだろうとかここはこうしたかったんではないかなーなどと勝手に想像し、予期しなかった楽しい時を過ごしました。
ラウンジで飲み物を提供してくれる係りの人に、この施設の設計者とは知り合いであることを伝えると、市の中心街にも最近出来た村山市総合文化施設(甑葉プラザ)があるとのことで、是非ご覧になると良いですよと勧められ、そこにも足を延ばすことにしました。
3時間は思わぬ建築探訪の“ぶらっと”になりました。


◆今月の山中事情139回−榎本久・宇ぜん亭主

−天災と人災−

七〇年の人生に於いて幸い戦争というものに命をさらされることはなかったが、交通事故が大小四、五回と病気が二、三度、命に関わることがあった。
が、絶命しなくて済んだ。だが自然災害の恐怖はこちらの問題ではなく、突如として起こり、そこからの脱出はよほどの運がなければまず助からない。
これまで私は直接的な天災の洗礼を受けてはいないが、近年の自然災害の狂暴さを見るにつけ、只恐れるだけだ。地震、噴火、台風、竜巻、雷、水害、と地球が暴れ狂っている。そして世界中で特大の被害を起こし、近代科学を
もってしてもそれを阻止することなど到底出来ないでいる。そして被害の甚大さの影には人間の諸行がある。
果たして必要であったかの開発は山野を痛め、修復をさまたげる大きな傷を生み、その結果、人命を奪いむごたらしい惨状を呈するのだ。そうなる以前、皆はそこでの暮らしを享受していたとなれば、百年に一度しか起きないことと言い訳するより人災を疑う方が正しいのではないか。毎年この国では天災を蒙る。
そして必ず犠牲者を生んでいる。それでもそこで逡巡しながら人は生きなければならない。自然の摂理にはかなわず、これからもその犠牲はつきまとう。
一方、人間が造ったものでその恐怖を与えつづけているものがある。原発だ。
原発が「爆発したらおそろしいことになる」という認識はあったが、政府の「安心神話」が優先していたのか、その危険性の認知は少なかった。ところが東日本大震災が起き、おそれていたことが起きた。広島・長崎の市民に続いて福島の方々もその体現者にさせられてしまった。自然災害とは違う、人間が造った恐怖の産物で。
こうなると、これまで各原発に於いて過去果たしてなにもなかったのであろうかと疑ってしまう。政府も東電もおそらくありえないことが起きたことに為すすべもなくおののいた筈だ。
安全神話」は崩れ、国民は原発の恐怖を知った。あの地震がなければ、皮肉であるが、原発の恐怖を我々は知らずに生きることになっていた。そんな原発をそれ以前我々は享受していたのである。原子力発電のそのやっかいさを何一つ知らず、暮らしの電力として恩恵をストレートに受け入れていた。
やっかいなものは停止する以外その方途はないと分かっていても、一方の民意はその反対にある。
コンセンサスはあるのであろうか。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。