★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.142

不安定な天候が続きます。
台風による風雨、御嶽山の噴火。
白州はあまり影響はされませんでしたが、それぞれの被害の様子は尋常ではありません。

さて、国立新美術館での行動展も終わり、生まれ故郷宇部での初めての個展があとひと月に迫りました。
多くの方々に支えられていることを実感します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.142》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          これまでに頂いた話題ストックの中より。
『 競争 』

「競い合い」という表現は、「競争」よりもいくらか柔らかい感じを与えるし、競う気持ちの準備をする際の抵抗感は競争よりも少ないかもしれない。しかし競う内容はまったく同じである。「陸上競技」は陸上における「技」の競争であり、「競馬」は馬と人間とが一体となった「競走」である。要するに「競う」ことによって「技」を磨いてさらなる競争に備えるわけである。日本の伝統的「柔道」「剣道」「茶道」などは、相手と「競う」ことなくその「道を究める」ことによって「内容(技という質的なものである)」を高めてきた。各「流儀」がそれぞれ異なる方法で内容(技と質)を究めてきたので、「流儀」同士の競争は稀である。
少なくともないことを前提としてきた。しかし、どちらの「流儀」の方が上級だとか強いとかは誰でも興味をもつところである。特に戦国の世には強い人が嘱望され重宝がられた。「兵法」は国同士が雌雄を決する際に大いに使われた。
「兵法」という言葉は剣術から作戦まで広い意味で使われたようだ。現代の長距離核弾道弾では、作戦などは要らないといわんばかりの兵器(技)の発展振りを示している。オリンピック競技は、国家間で「技」を平和裏に競う祭典である。そうであろうか。スポーツとは怪我をしないギリギリの線で規則を作って「技」を競わせる「戦争ごっこ」である、と前に書いたことがある。日本語にはスポーツという外来語に当てはまる適訳語がない。「運動」だというかもしれないが、これは「競い合い」を意味しないので「エクササイズ」のことであろう。国際間の友好を目的とした「戦争ごっこ」が四年ごとに開催されることは真に望ましく、国際オリンピック委員会の役目は重大である。明らかに戦争(喧嘩)ごっこであるボクシングやフェンシングや槍投げや、さらには射撃がオリンピック種目にあって不思議はないのである。
ここで「競争と友好」という概念をもう一二歩進めると、「戦術」「芸術」「商術」「政術」「技術」「算術」「剣術」「忍術」などなど、様々な「術」を考えるとき、これらはすべて競争に使える「術」であり、「国際競い合いごっこ」のための「術」として、戦オリンピック、芸オリンピック、商オリンピックなどと表現して、国際間の平和友好のために役立てれないかと思えてくる。勿論すでに行っている分野もあるだろうが、これらを同一概念で結びつけて「平和」の新しい考え方に発展していければ、と考えた次第である。「国際医術」の競い合い、「国際食術」「国際逆立ち術」「国際猿術」など奇想天外な競い合いが考えられる。なんだか興奮してきた。
人類の歴史は戦争史であるといっても差し支えないほど戦争の連続であったし、現在もそうであるが、人類史を否定しないためにも今ここで、「戦争」は「悪」である、という概念を一時はずしておき、戦争の定義を「戦術オリンピック」の過激化したものであると、仮定してみる。私は前にイラク戦争アフガニスタン戦争をサダム・フセイン掃討作戦、オサマ・ビン・ラディン掃討作戦といって、ギャング指名手配掃討作戦と同じであるといった。戦争と内乱とが違うように、戦争をはっきり定義するのは難しい。そこでだ、前述の「術」を建設的「術」と破壊的「術」に分けて、この二組の「術」をうまく組み合わせることによって、人間の積極的参加を促しながら破壊的「術」を肯定的な「術」に組み替えていけないか、という提案である。例えば、「戦術と芸術」「商術と医術」「政術と猿術」「忍術と算術」などの組み合わせで、国際的に競い合わせるのだ。会場は劇場であったり、会議場であったり、オリンピック・スタジアムであったり、コンピューターであったり、飛行するジェット機の中であったりなどと、様々な場面が考えられる。うん、面白そうだ。「戦術と芸術」では、いくさ(戦)の「技術」を芸術の域で表現達成したり、芸術作品として「技術」を制作して「創造性と戦」を最高のレベルに昇華させたりすれば、戦は野蛮で粗野な下級作品ではなく、芸術の域で勝負ができるようになるだろうと考えた次第である。これは競争をしたいという人間の本能を、スリルとサスペンスが味わえる国際舞台で行えるようにすることによって、人類史上最も古い「戦」と「芸術」を組み合わせて万人注目の前で、戦を建設的な芸術作品に仕上げるのだ。
2012年の箱根駅伝という大学対抗競走をテレビで見ながら想い描いた新春の国際絵巻きもの、引退した学者が見た初夢として受け取っていただきたい。

2012年正月7日 正午にクレムソンにて、7キロ走って気分がまだ揚している
 岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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『二足のわらじ・・・』

第69回の行動展が終わりました。60人に及ぶ知人・友人の方々が私の絵を観に国立新美術館まで足を運んで下さいました。御礼申し上げます。
これまでは設計のみを本業としてきましたが、昨年描いた行動展出品作(3点)がきっかけとなり、“描く”も本業として取り組むことにしました。その事について話したいと思います。

小学3年生の時だったと思います、担任教師の代理として絵の時間を担当された先生が私の絵を見て、うちに絵を習いにいらっしゃいと誘って下さいました(その時の絵は現在も手元にあります)。その先生は同級生のお母さんでしたが、ご主人が高校の美術の先生(一水会会員)でした。この美術の先生の絵の教室に行くことになったのです。これが私の絵との関わりの始まりです。
小学生時代は絵と野球三昧の少年でした。野球をしていない時は一人で絵の具とスケッチブックをもって、自転車であちこち出かけていました。工場風景が好きで、家からは遠いのですがよく描きに行ってました。また、5,6年生の頃、とても恥ずかしかったのですが、大人達に混じってヌードデッサンもしていました。そのことは親や友達には内緒でしたので、気付かれないようにと描いたデッサンを一人でそっと焼き捨てたこともありました。
絵描き少年になった私は中学生になると美術部に入り、やがて数々の賞を取るようになりました。その中学時代に、地元の高校生美術部員による美術展を観る機会があり、大人っぽい雰囲気の美術部に憧れるようになりました。高校受験も無事クリアし、部員募集がかかるのを待ちきれず、入学とほぼ同時に憧れだった美術部に入りました。部活は楽しく、あの三高美術展(市内の三高校による美術展)にも出品しました。やがて、日本−ニュージーランド美術交換学生の中国・九州地区代表としてニュージーランドに行く機会をも得ました。一方で二年生になると進路決定も迫り、美術大学への進学を考えていました。が、「絵では食えない」と親に猛反対されやむなく断念。ならばとクリエイト領域の建築を選択。アメリカの建築家F・L・ライトの「落水荘」にあこがれていました。しかし、そんな部活生活もやがて描くことに行き詰まりを覚え、描けなくなる時が来ました。

2003年の暮、たまたま街で末娘が習っていた絵の先生に出会い立ち話。絵の話をしてるうちに私がアトリエに通うことになりました。二度目の絵との関わりの始まりです。年が明けた正月、高校卒業以降絵筆を持つことが殆ど無かった私ですが、実に久し振りに画紙に向かいました。鉛筆デッサンから始めましたが、40年近い歳月を経てもなお「手」が忘れていないのに嬉しくなりました。意外と描ける!実に楽しかった。一年間は感覚を呼び覚ますため鉛筆デッサンに集中しました。二年目からは、それまでやったことのないパステル画に取り組むことにしました。
そんな2006年の夏、雨上がりの井の頭公園をたまたま散歩する機会があり、そこで目にした“青々とした樹木を映した水溜り“の美しさが強く印象に残りました。その印象は、子供の頃に焼き付けられたある光景を呼び起こすことになりました。
その光景とは、ある日の午後一人で自転車に乗って絵を描きに出かけました。ところが途中で雨に降られ、描けないまま友達の家で待機することにしました。やがて雨も上がり、家路につこうと出たところ、“午後の眩しい黄色い陽を受けた水溜まり”が目が留まりました。絵に描いたと記憶してますが、このコントラストの強烈な光景はしっかりと私の中に焼き付けられていました。そして、この井の頭公園の水溜まりの美しさがその焼き付けられた記憶を呼び起こし、時間を越えて共鳴し合いました。

やがて消えゆく雨上がりの水溜まり
その刹那に見せる自然の“かがやき”
あたかも大地が眠りから覚め、目を開けた時に見せた光景のよう

これは私の絵のテーマだ!! 本気で絵の創作に取り組もう…と決意した瞬間です。
その時描いた絵は、武蔵野美術展で銀賞を受賞し、審査員の方から公募展への出品を勧められました。そうして2008年より雨上がりの水溜まりをテーマに「大地の目覚め」のタイトルで行動展への出品が始まります。しかし描く時間はあまり取れず、一月の内のせいぜい8〜9時間程度でした。そんな状況がしばらく続きましたが、昨年あたりから移住生活に慣れた事もあり、描く時間も取れるようになり、頭の中は絵のことで占められるようになります。そのような生活が続きだし、絵のそばで寝起きすることもしばしば。やがてそれまでとは違った表現方法に至りました。それは、眺める自然から、その中の一員として共に生きる対象の自然という移住生活による意識の変化が背景にあると感じていますが、一番大きな原因(変化)は、建築の設計でアイディアをエスキースしてる時の感覚と、絵を作って行く(創作)時の感覚が無理なく繋がったことによると思います。勿論、絵と建築は全く別物です。私自身の中でも別次元の存在です。が、昨年あたりから絵を作ろうとする感覚が建築のアイディアをエスキースする時の感覚に近いと感じる様になっていき、次第に私の中で違和感なく、通底したように一体化し始めました。これが表現変化の一番の理由でしょう。
この方法でいける!!  “二足のわらじ・・・”へ。

二頭追うもの一頭をも得ずの訓戒はありますが、好きな建築の設計をし、好きな絵を描く。まあいいじゃないか、それも我が人生のデザインと思えば…。
建築を軸に考えれば、絵の世界を持つことは、設計の幅を拡げることに役立つでしょう。絵を軸に考えれば、“急がば回れ”…、建築の世界を見たことによって、通常とは違ったアプローチで絵の制作に取り組む機会を得たことになる。別の表現方法を見つけることに役立つだろう。
いずれにしても、建築と絵という二つの表現方法を手にしたことになるわけで、それはそれで大変かもしれないが、せっかくの機会なのでやらない手は無い。「二足の草鞋を履く」の始まりです。
後二年もすれば古希を迎える歳になりますが、まだまだ充分やれる。
新たなる“始まり”に乾杯と行きたいところです。
11月の個展は“二足のわらじ”の出発点です。応援宜しくお願いします。



◆今月の山中事情102回−榎本久・宇ぜん亭主

『 現象 』

奇妙な“現象”に気づいた。
現政権は中国、韓国と気まずい緊張が続いている。互いにあちらが悪く、こちらは悪くないと言い合っている様で、少しも良い方向に進展しないでいる。
ロシアや北朝鮮とも懸案の問題がそのままの様で、外交力の弱さを露呈している。
ここで一般市民のとる行動についてはお門違いかも知れないが、我々なら、争いとならぬように住民同士が相手に対し気遣いをするものだが、それが「国家」を背負うと「プライド」が先行してしまうのかごらんの通りだ。
ところがである。「大久保」あたりでは右側の人達がヘイストスピーチをがなりたてているころ(今はやっていないようだ)、BS放送では、中国、韓国のドラマだらけだ。
ある日の各局の放送を記してみる。
 [日テレ] 10:00 韓国ドラマ「ホジュン
        0:00 韓国ドラマ「愛は歌に乗って」
        1:30 韓国ドラマ「愛は愛」
        4:00 韓国ドラマ「輝いてスングム」
 [朝日]   8:58 韓国ドラマ「あなたの女」
        2:57 韓国ドラマ「がんばれミスターキム」
        4:58 韓国ドラマ「狂気の愛
 [TBS] 17:58 韓国ドラマ「インス大妃」
 [テレ東] 10:57 中国ドラマ「宮廷女ジャクギ」
        0:57 韓国時代劇「チャンオクチョン」
        2:00 韓国ドラマ「金よ出てこい」
 [フジ]   9:55 韓国ドラマ「光と影」
        3:00 中国時代劇「チャンオクチョン」
        2:00 韓国ドラマ「金よ出てこい」
 [Tokyo MX2]7:00 「百済の王」「クンチョゴワン」
 [BS11]10:00 「バラの花」、「愛してみたい」
       11:00 「ルビーの指輪
 [NHK]、[WOWOW]もある。
以上、一日にこれだけ多くの中国、韓国のテレビドラマが放送されている。
中には当然日本に関わる歴史的なものもあろう。そのことは放送局も、視聴者である我が国民も受け入れているわけで、嫌中、嫌韓とはなっていない。
このことをとらえてこ、日中、日韓の政治の部分がおかしくなる理由がどこにあるのかと私は解せないでいる。国のレベルと民間のそれとでは意味合いが違うと言う意見もあるだろうけれど、おかしくしているのは、そういう方々ではないかと指摘したくなりますが、この“現象”があることにより、国家間に決定的なことが起きないことを安堵しているが、この先はわからない。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/